飛鳥  その8
 国史蹟「中尾山古墳」

 近鉄吉野線「飛鳥駅」から東へ行くと、左に「国営飛鳥歴史公園館」があり、右が地元で「坊主山」と呼ぶ丘で、「中尾山古墳」があります。墳丘全体を葺石で覆っていた三段築成の八角形墳で、外周にも八角形をなす二重の石敷が巡り、墳丘の対辺間の距離は、約19.4m、石敷の対辺間の距離は約29.4mで、高さ4m前後、石槨は花崗岩を主とする切石を組み合わせ、一辺1mの正方形で、高さ0.9m、漆喰で石のメジを埋め、水銀朱が付着していました。内部の規模から見て火葬骨を納めた墳墓で、7世紀末から8世紀初めに築造されたと考えられ、北に天武・持統天皇陵があり、南へ約200mの所に高松塚があります。
 国の特別史跡「高松塚古墳」

 「中尾山古墳」「高松塚古墳」を含む周辺一帯は、「飛鳥歴史公園高松塚周辺地区」として整備され、高松塚壁画館(TEL 0744-54-3340)の直ぐ東隣に「高松塚古墳」が在ります。尾根の上に堅固に版築された直径23mの円墳で、高さ約5m、石室内に乾漆棺材・金銅製飾金具・海獣葡萄鏡、ならびに人骨、および切石造の家形石槨の他、壁の全面に漆喰を塗り、その上に金銀と8色の顔料で日・月・四神・星座、男女人物群像を描いているのが昭和47年3月に発見され、被葬者は7世紀〜8世紀の皇子と推定されているが、墓誌銘がないので誰の墓か不明です。なお、石室内を見る事は出来ないけど、復元模型が壁画館にあります。
 文武天皇桧隈安古丘上陵

 「高松塚古墳」の直ぐ前に星座をモチーフにされた星宿(せいしゅく)の広場が在り、そこから丘を少し南へ下って行くと、こん盛りした所が文武天皇の桧隈安古丘上陵です。第42代文武天皇は諱(いみな)を軽皇子と云い、父が草壁皇子(追尊し岡宮天皇)で、母が阿閇皇女(あべおうじょ、奈良朝初代、第43代元明天皇)です。また、彼は天武・持統天皇の孫で、「続日本紀」によると、707年(慶雲4年)6月に崩御され、11月明日香村岡で火葬された上、御陵へ葬られたと記されています。なお、彼は皇后を立てず藤原不比等の娘「宮子」を婦人として、生まれたのが後の奈良朝3代目で初の男性天皇の、聖武天皇です。
 於美阿志神社(宣化天皇桧隈廬入野宮跡)

 「文武天皇陵」の前から東へ向い、南北の道を南へ辿って約700m行くと、明日香村檜前(ひのくま)で、重文「於美阿志(おみあし)神社」が鎮座しています。祭神は、応神天皇20年に、加耶(かや、朝鮮半島南部)諸国の1つ安羅(あら)から17県の人々を引連れて渡来し、安羅が訛って漢(あや)になり、更に西の河内と、東の当地に分かれた東漢(やまとノあや)氏の先祖阿智使主(あちノおみ)夫婦を祀り、境内は「桧隈(ひのくま)寺跡」で、7世紀末の瓦が出土し、「日本書紀」天武天皇朱鳥元年(686年)の条に寺名があり、塔跡に建つ重文の「十三重石塔」は、上層二重を欠いているが、平安時代の秀作です。
 檜隈寺跡の重文「十三重塔」

 「於美阿志神社」の境内で、礎石及び「十三重塔」一基が残る「檜隈寺跡」からは、7世紀後半〜8世紀初頭に建立され、飛鳥寺法隆寺に匹敵する規模の講堂跡が発見されているが、他にも金堂・基壇・塔・門・回廊・仏堂跡と推定される遺構が見つかっており、その配置や工法から渡来系氏族との関係が指摘され、「日本書紀」朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺、各封百戸、限卅年」とあり、白鳳期の古瓦も出土し、鎌倉時代は「道興(どうこう)寺」と称し、また、本居宣長の「菅笠日記」に遺構の事を「里人に聞けば、道(みち)の光(ひかり)と書くよし也、されどそれもいかがあらん」と記しています。

 国の特別史跡「キトラ古墳」

 「於美阿志神社」から南へ700m行くと、安倍山の南斜面に「キトラ古墳」があります。直径13.8m、高さ3.3mの円墳で、外から石槨内に挿入したファイバー・スコープで壁面に描かれた極彩色の玄武や朱雀等が高松塚古墳と同じように確認されて話題になりましたが「亀虎古墳」は、現在外観も見られず、古墳からの出土品や壁画の写真などは、飛鳥寺から北東へ行った県道15号桜井明日香吉野線沿いの「奈良国立文化財研究所飛鳥資料館」に展示されています。また「亀虎古墳」へは、近鉄吉野線・飛鳥駅から歩くより、南隣の近鉄・壷坂山駅から歩く方が近いけど、途中の田園風景を見ながら歩くのも楽しいものです。
注:高松塚古墳とキトラ古墳の写真の上にマウスを乗せると、以前の古墳の写真が現れます。
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