句碑の郷「東吉野村」  その2

 天誅組終焉之地

 バス停「鷲家」から県道16号吉野東吉野線を少し「鷲家川」に沿って南下すると、道路に面して左側に「天誅組終焉之地」の碑が建っています。東吉野村は幕末の1863年(文久3年)8月明治天皇の前侍従中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら3士を総裁とする「天誅組」が、五条で討幕の旗揚げをしたけど、敗れて幕軍の追討を受け、吉野山間を転戦し、同年9月24日〜27日東吉野村にて3総裁以下15志士が戦死された「終焉之地」です。なお、東吉野村の村内には、「天誅組湯ノ谷墓所」や「天誅組明治谷墓所」など至る所に天誅組の墓所や、「天誅義士記念碑」が建てられ、供養されています。
 天誅組吉村寅太郎の墓

 石碑「天誅組終焉之地」の背後、「鷲家川」を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎の墓」があります。吉村寅太郎は、1837年(天保8年)高知に生まれ名を重郷と云い、土佐藩士でしたが、武市瑞山の勤王党に参加して、尊王攘夷運動で活躍し、「天誅組」をつくって大和五条で兵を挙げ、代官所を襲ったが後に敗れ、1863年(文久3年)9月27日、中山忠光主将以下の安否を気づかい、東吉野村木津川より山を越えて此処までたどり着いたが、小谷の上流50mの処に在った薪小屋で潜伏休息していたら、発見されて密告され、幕府方の藤堂勢、金谷健吉の放った銃弾によって無念の最後を遂げ、享年わずか27歳でした。
 龍泉寺の「木造如来坐像」(*1)

 「天誅組終焉之地」から又北へ戻り、国道166号線を右(東)へ行くと、鷲家(わしか)集落の東方に曹洞宗、瑞応山「龍泉寺(りゅうせんじ)」があります。1558年(永禄元年)竜巌が開基し、1570年(元亀元年)慶田寺(けいでんじ、現在の奈良県桜井市)の高僧、順察を迎えて開山され、本尊は「聖観音」、1863年(文久3年)天誅組七志士らの菩提寺で、湯の谷墓地に眠る6人と谷尻(たにじり)集落で自決された方、及び紀州藩士の菩提を弔い、なお、当寺に平安時代初期の作で、県文化「木造如来坐像」を安置され、像高47cm、右手施無毘印、左手が拳印を表して、右足以外で結跏趺坐をしておられます。
 龍泉寺「野見観音」の香水

 また、「龍泉寺(TEL 07464-2-0555)」の境内には本堂に向かって右側、境内に入って正面(西向き)に「野見観音」を祀る「観音堂」が建っていますけど、観音立像は、元は鷲家の野見(のみ)に祀られていた観音様で、昔から首から上の病に御加護があり、毎年初午の日(13;00〜)近在近郷の人々が参詣して賑わいますが、毎月1日にも頭がスッキリする祈祷を行っておられます。なお、「野見観音」の御香水は、国道166号に面したお寺の入り口に写真の様に湧き出ていて、晩秋の頃には、紅葉が綺麗に色付きます。「龍泉寺」へは近鉄大阪線「榛原駅」からバス菟田野で大又行に乗り換え、鷲家で下車、東へ徒歩10分。




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(*1) この写真は、観光旅館「杉ヶ瀬(TEL 07464−2−0012)」さんご提供