こもりくの泊瀬「初瀬街道」長谷寺の辺り  その6

 長谷寺(TEL 0744-47-7001)

 真言宗豊山(ぶざん)派の総本山、西国三十三観音霊場第八番札所の「長谷寺」は、万葉集で「こもりくの泊瀬(はつせ)山」と詠われ所に建ち、また、昔は豊初瀬(とよはつせ)とも呼ばれた所で、お寺を泊瀬寺、初瀬寺、豊山寺と呼ばれていました。第107代後陽成天皇の御辰筆による額が掛かっている国重文の総門(仁王門)は初め、第66代一条天皇の頃、平安時代に建てられ、その後9回も火災にあっていますが現在の仁王門は、明治18年に再建され、楼上に十六羅漢を安置し、左右の両脇に金剛力士(仁王さん)が立ち、拝観料を払って仁王門を入ると、丸い長谷寺型灯籠を梁に吊す399段の回廊形式登廊が続きます。
 国重文、回廊形式の「登廊」

 国重文の「登廊」は初め、第61代朱雀天皇の頃、1039年(長暦3年)に春日大社の社司中臣信清が我が子の病気平癒の御礼で寄進し、現在の第一、第二登廊は、明治22年に再建されています。登廊を上がると、すぐ右に道明上人の御廟所、続いて宗宝蔵、月輪院、左に歓喜院、梅心院、慈眼院、金蓮院が建ち、天狗杉の角を右に曲がると蔵王堂、そこを右に見て、左に曲がると左右に三百余社、馬頭夫人社等が有り、108間の回廊を登り切ったら、尾上の鐘が懸かった鐘楼が建ち、そこをくぐると広場の納経所を囲む様に右から能満院、三社権現、愛染堂等が並び、そして、左が舞台造り、南面入母屋造本瓦葺の「本堂」です。
 初瀬山を背にした国重文の「本堂」

 現在の「本堂」は、1650年(慶安3年)に徳川第3代将軍家光によって寄進、再建されていますが、奈良は東大寺の大仏殿に次ぐ最大級の木造建造物で、間口柱間9間、奥行5間の正堂、9間・4間の礼堂の南に更に5間・3間の外舞台がある独特の建物です。安置されている重文の本尊「十一面観世音菩薩」は、1538年(天文7年)仏師東大寺仏生院実清良覚によって彫られた長谷寺型観音で、金色に輝き、右手に錫杖と念珠、左手に蓮華を挿した水瓶を持って方形の石の上に立ち、我が国最大の木造仏(楠の霊木)で、身の丈は3丈3尺6寸(約10m)、光背が4丈4尺(約12m)、観音と地蔵の徳を持っておられます。
 謡曲「玉鬘」と「二本(ふたもと)の杉」

 第一「登廊」の途中から右へ行くと、謡曲「玉鬘」で詠われた「二本の杉」があります。なお、玉鬘は、源氏物語「玉鬘(たまかつら)ノ巻」に載っていて、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が「二本の杉」の下へ僧を案内して、亡母の侍女・右近と巡り会った事を話します。また、玉鬘は光源氏と契ってから生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あって筑紫へ身を隠していたが、母に会いたい一心で、筑紫から大和国へ来て、長谷寺で祈願をしていたら、右近と巡り合いました。そして、母の死を知る訳です。この様に長谷寺の観音信仰は、どんな願いも示現して下さると云うので、王朝時代から盛んだった事を物語っています。
 

 「俊成碑」と「定家塚」

 また、「玉鬘(たまかずら)」の「二本の杉」から更に先へ行くと、「俊成の碑」と「定家の塚」があります。藤原俊成(しゅんぜい)は平安末期、鎌倉初期の歌人で、正三位皇太后宮大夫に至り、五条三位と称され、定家(ていか)の父です。また、藤原定家は、鎌倉時代の歌人で、正二位権中納言、晩年出家して法名を明静と云い、「新古今和歌集」の撰者の一人で、「新勅撰和歌集」「小倉百人一首」の撰者でもあり、彼が、1205年(元久2年)長谷寺で呼んだ歌は、

 年も経ぬ いのるちぎりは初瀬山 尾上の鐘の
 よその夕暮れ  「新古今和歌集」藤原定家



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