生駒山周辺と信貴山まで  その17
 信貴山城跡(標高433m)

 「十三峠」から「生駒縦走コース」を南へ辿って、途中「高安山(標高488m)」の手前から東へ向い「信貴山の雄嶽(標高437m)」へ至ると、頂上に「信貴山城跡」があります。中世に大塔宮護良親王や楠木正成も拠点としたが、河内国の木沢長政によって築かれ、松永久秀が大和で最大規模の山城に拡張し、東西550m、南北700mに渡り120以上の廓を配して、今も空堀の切り通し堀、土塁、門等の城廓跡が残っていますが、久秀久通親子が織田信長の大軍に攻められ籠城50日、1577年(天正5年)10月10日彼が大仏殿を焼いた10年前と同じ日に落城。
 信貴山「空鉢(くうはつ)堂」

 なお、松永久秀は死の直前でも中風に効く「三里の灸」を足にすえ、信長が熱望していた茶碗「古天明平蜘蛛」と共に68歳で爆死しましたが、彼の終焉の地である旧信貴山城天守閣のあつた山頂は、今の信貴山「空鉢堂」の辺りで、そこには信貴山中興開山・命蓮(みょうれん)上人によって祠が造られ毘沙門天王の分身で、巳の姿(竜神、難陀竜王)で出現される空鉢護法の神を祀っていますが、難陀(なんだ)竜王は、今から千四百年前、毘沙門天王がこの地に出現した時に、劒鎧童子と共にお供をして現れ、天王の福徳を授ける使者である八大竜神の中では最も優れた竜王で、信仰篤き者には一願成就必是のあらたかな神様です。
 朝護孫子寺(TEL 0745-72-2277)

 「空鉢堂」から朱色の鳥居が建ち並ぶ参道を下ると信貴山の「多寶塔」と「鐘楼」があり、一度下りて、左へ上がると信貴山「朝護孫子寺」です。霊峰信貴山の信仰から興ったと考えられる寺院ですが、587年(第31代用明天皇2年、寅年)寅の月の7月、寅の日、寅の刻、聖徳太子が、仏敵物部守屋の討伐を祈願した折、毘沙門天王が虎を供に従えて出現し、太子に戦勝の必法と六目の鏑矢(かぶらや)を授け、御年が14歳の太子は見事、河内国稲村城の物部氏を討伐して「信ずべき、貴ぶべき山」と叫んで、鎧兜を着けた「毘沙門天王像」を太子自らが彫って祀られました。また、平安時代初期には命蓮上人が中興しています。




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