「笠置山」  その10

 「木津川」の「潜没橋」と国道163号線

 太陽神と岩の神を合わせもつ「天照御門神社」の東隣には、「東明寺(とうみょうじ)」があり、お寺に大般若経六百帖が伝えられ、また、奈良、天平時代〜室町時代迄の古い写経も残っています。なお、境内の東西にそれぞれ坊の跡や石仏群があり、また、最近になって、中国の宋の時代のものと思われる小さな銅像「聖観音坐像」が東の坊の跡から出土しました。更に「東海自然歩道」まで戻って、東へ少し辿ると、道が左へ曲がって北へ出た所が「木津川」で、「石橋」が架かっています。大水が出ても流されないれど、水の中に沈むので、「潜没橋」と云われ、笠置町民だけが乗れる「笠置町循環マイクロバス」が通っています。
 「木津川」沿いの「国津神社」

 木津川の「潜没橋」を渡って、国道163号線へ上がったら右へ曲がり東へ行き、国道から右へ150m行った奧、木津川の崖の上、JR関西本線の鉄橋の直ぐ横に「国津神社」が鎮座しています。なお、ここら辺りは、太古は「吾地(あち)」と呼ばれ、現在は、笠置町有市(ありいち)で、「国津神社」は、有市の氏神さんです。笠置山の紅葉が色付く頃「秋まつり」に境内で、「稚児泣き相撲」が行われ、氏子によって抱かれた裸の稚児が土俵に上がり、わめき泣いた方が勝ちと裃を着た行司によって裁かれます。また、当日巫女さんによって釜に熱湯を湧かし、「湯立」催事も行われます。なお、国道を東へ行くと南山城町です。
 「法明寺」の「薬師堂」

 「国津神社」からまた国道163号線を西へ戻り、更に国道から右(北)へ入って、国道と平行する「旧伊賀街道」を西へ行くと、片道約1.7キロの間が、「法明寺ジョギングコース」、途中道の右(北)側へちょっと入った所に墓地があり、その隣に写真の様な藁葺きの屋根で「法明寺」の「薬師堂」があります。当寺には、平安時代作の「釈迦如来」「吉祥天」「増長天」等の仏像を始め、多くの文化財が伝わっているそうですが、別に「本堂」がある訳でもなく、「薬師堂」も無住なのではっきりした事は判りません。また「旧伊賀街道」へ出るには、元来たお墓の横を通らなくても、細い道を真っ直ぐ南へ抜けると出られます。
 「山神社(西の山神社)」の「大杉」

 なお、更に「旧伊賀街道」を西へ行くと、「法明寺ジョギングコース」の端の辺り、集落が少し密集した辺りで細い路地を右(北)へ入ると、「勝楽寺」がありますが、「旧伊賀街道」をちょっと右へ曲がって、「法明寺ジョギングコース」の端、「横川」の「栗足橋」の手前、山際に小さな木の鳥居が建って、可愛い社の「山神社」が鎮座しています。なお、脇に建っている背の低い石灯籠の背後に、「京都の自然二百選」に選定された「大杉」が植わっています。樹齢千百数十年、幹周り5mの古木で、大昔に、村人が山の神に若木を授かって植えたものが大きくなったそうです。また、現在は樹木の上の方から下へかけて沢山の蔦が絡んでいますが、その昔、この巨樹の下で、柳生十兵衛三厳(みつよし)の弟子で郡山藩士、剣豪の「荒木又右衛門」が、1634年(寛永11年)11月伊賀上野「鍵屋の辻」で、妻の弟、岡山藩士の渡辺数馬が仇討するのを助太刀するため出かけて行く時、途中ここで一休みをして「山神社」へ必勝祈願をしました。




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