「香芝市」から 「王寺町」辺り  その11

 畠田(はたけだ)古墳

 「永福寺」から真っ直ぐそのままバス通りを横断して、道なりに西へ向かい、住宅地への道へ入らないで脇を進むと、美しケ丘住宅地の外れに「畠田古墳」があります。径15m、高さ約4mの円墳で、南に開口する両袖の横穴式石室が設けられ、石室は遺体を納める玄室と通路にあたる羨道(せんどう)からなり自然石で整然と構築され全長5.9m、なお、玄室は長さ3.2m、幅2.0m、高さ2.3m、室内に木棺が納められ、少なくとも2体以上が埋葬されてた様で、同時に金環、金銅製刀装具、ガラス玉、鉄鏃や、須恵器、土師器などが副葬され、これらの出土遺物から、7世紀の初頭に築造された古墳と考えられています。
 県北部一の景観を誇る「明神山」への入口

 「畠田古墳」からまたちょっと東へ戻って、住宅地内の大きな道を北へ上がって、またバス通りへ出るとバス停「明神4丁目」です。JR大和路線「王寺駅」発で、JR和歌山線「畠田駅」の辺りを通って、東急ニュータウン王寺「美しヶ丘」住宅地「明神1丁目」行のバスが停まります。バス停からちょっと南へ戻ると、大通りに面して朱色の鳥居が建ち、鳥居をくぐると「明神山(標高273.7m)」への参道で、住宅地を抜けると、此れより先はハイキングコースで車は進入できません。参道は昭和32年町村合併で志都美村から王寺町へ編入され、古くから山頂の「水神社」への参拝者や山林所有者の方々が利用していました。
 王寺町道「明神西山線」と自然の森

 「明神山」への参道は、少し急な傾斜道で、山と山の間を通り、谷の様な堀り割り状態が多く、昔は雨が降る度に土砂が流れ、通行が不便で畠田地区の方々が自主的に補修されて来ました。しかし、昭和51年に住宅開発が実施されるに伴い、地元畠田自治会、水利組合から道路整備を開発業者に要望され、昭和58年開発業者の負担で、拡幅とコンクリート舗装及び道路側溝布設の工事が完成しました。なお、昔からここの伏流水が農業用水の豊富な水資源であったことから、西山の明神さんとも云われる「水神社」が山頂に鎮座し、参道の脇道は古くから大和と河内を結んで、聖徳太子送迎の「送迎(ひるめ)越え」と云われました。
 「太神宮跡」に鎮座の「水神社」の鳥居

 なお、「明神山」には、元々は「太神宮」として、1830年(文政12年)大日霊女尊(おおひるめノみこと)を祀り、四国阿波(徳島県)方面からも多くの人がお参りされ、大いに賑わい、昔は参道にナツメ茶屋やシンコ茶屋、オーコ茶屋などがあったそうですが、今はお山に人家が一軒もありません。また昔は、内宮(送迎太神宮)も外宮(亀山太神宮)も宇治橋もあって、遠くから伊勢の「皇太神宮」へお参りする時は、ここの峠を必ず通るので、ここが大和の皇太神宮で、本家本元であるとも云われて、「太神宮」さんの御神府(おふだ)を授与しておられたから、長旅で疲れた人は、ここだけお参りをして帰られたそうです。
 明神山の山頂に鎮座する「水神社」

 なお、その昔、片岡氏が明神山に城を築いたけど、松永弾正久秀に焼き払われ、また、ある時、大和郡山藩主が馬に乗って来て、これは偽(にせ)の皇太神宮だと云って、大和郡山藩が命令を出して太神宮を取り壊して、拝殿と灯籠が麓の畠田5丁目に鎮座する火幡(ほばた)神社に遷され、今はその跡に祭神として、水波当ス(みずはのめノみひと)を祀る「水神社」が鎮座し、毎年9月1日八朔(はっさく)に多くの人々が参籠されます。また、「明神山」は金剛山脈の最北端に位置して、大和川を挟んで信貴山と相対し、西は大阪府に属し、南は二上、葛城へ連なり、付近一帯が奈良県条例による景観保全地区に指定されています。
 明神山山頂、南の展望デッキと「二上山」

 なお、王寺町の西端で、奈良と大阪の府県境にある「明神山」は、その昔、「豊臣秀吉が百万両の財宝を隠した」と伝えられ、標高がそれほど高くもないが、360度展望が利き、大阪方面、奈良盆地が一望されて、江戸時代には大阪堂島の米相場の籏振(はたふ)りもこの山頂で行われ、また、今は水神社を取り巻く展望デッキが3ヶ所あり、北に信貴山・生駒山と矢田丘陵に挟まれた竜田川、東に若草山から大和青垣と大和三山、南は直ぐ目の前に二上山越しに葛城・金剛の山が重なり、西に大阪を望み、出来たら双眼鏡持参で登ると、信貴山朝護孫子寺が手に取る様に見えます。
 「明神山」の西側にある「十三重塔」

 なお、昔は「明神山」に白狐が二匹住んでいましたけど、ある時、香芝市関屋(せきや)の甚九郎という人が、白狐を一匹撃ち殺しました。そしたら、残った一匹は、東へ逃れて天理市守目堂町の罐子山(かんすやま)に隠れ住んだそうです。また、麓の畠田地区に字(あざ)「おどり場」と云う所がありますが、これは、村人が明神山の上まで行くのが遠いので、太神宮の出先の宮を造った所と云われ、今でも10月22日そこで祭りが行われています。また、「明神山」から丸太階段の遊歩道を西へ下りて、百合の群生地がある場所を通って、近鉄大阪線「国分駅」の方へ下ると、山道の脇に写真の様な「十三重塔」が建っています。
 椎坂の「関屋地蔵尊」

 「十三重塔」を左に見て、山道を更に西へ行くと、三叉路の所に「関屋地蔵尊」が祀られています。ここから左(南)へ向かう道は、田尻越(たじりごえ)の「長尾(ながお)街道」で、昔は大阪府柏原市国分の方から登って来て、奈良県香芝市関屋を通り、奈良南部の北葛城郡当麻町長尾に鎮座する「長尾神社」から吉野や、奈良東部の長谷寺へ向かう道でした。また、尾根道を真っ直ぐ西へ下ると、大阪府柏原市国分に至り、奈良と大阪を結ぶ主要街道の1つであった亀瀬越(かめノせごえ)の「奈良街道」と合流し、国分から八尾、平野を経て、大阪「四天王寺」へ至る道でしたが、聖徳太子斑鳩からこの山道をよく通いました。
 融通念仏宗「品善寺(ほんぜんじ)」

 また、「明神山」から東へ戻って、麓の「美しヶ丘住宅地」のバス停「明神4丁目」から北へ行き、終点「明神1丁目」から道なりに右、左、左と曲がって、バス停「王寺霊園前」から北へ上がり、健民グランドを過ぎて左へ行くと、左側に蓮台山「品善寺」があります。創立由緒は不詳ですが、法隆寺塔頭から移した本尊は、木造で彫眼され漆箔を押し、来迎印を結んだ「阿弥陀如来坐像」、藤原時代の作です。なお、庫裏の前にある「薬師堂」には、寄木造で、玉眼を嵌する「薬師如来坐像」が安置され、室町時代の南都仏師・椿井舜慶(しゅんけい)民部の作で、県指定文化財。また、「涅槃臥像(ねはんがぞう)」などもあります。
 孝霊(こうれい)天皇片丘馬坂上陵

 「品善寺」からまた東へ戻って、大きな道を渡り、県道201号山陵王寺線を更に東へ辿ると、左の崖に沿って上がった所に「孝霊天皇片丘馬坂上陵」があります。非常に大きな陵墓で、全体がなだらかな円墳になっています。第7代孝霊天皇は、日本書紀によると第6代孝安(こうあん)天皇の皇子で、名を大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにノみこと)と称して、都を大和国黒田(田原本町黒田、近鉄田原本線黒田駅の辺り)の廬戸宮(いほとノみや、黒田池の堤を兼ねた高台に「廬戸神社」があります)に営み、在位76年で、128歳にて没し、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)と桃太郎(吉備津彦)の父とされています。


「明神山」からの眺望

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