北山の辺の道  その8−1

 和爾坐赤坂比古神社

 「弘仁寺」から「山の辺の道」を南へ辿ると、天理市へ入って、「白川ダム」の西側を通り、名阪国道を越して「石上神宮」へ至るけど、又少し寄り道して、天理市和爾町で右(西)へそれると、「和爾坐(わににいます)赤坂比古神社」が鎮座しています。祭神は阿田賀田須(あたかたす)命と市杵島姫(いちきしまひめ)命で、境内に横穴式石室をもった円墳があり、「日本書紀」神武天皇即位前紀末年に載っている和珥坂下(わにさかした)が当地で、古事記によると崇神天皇の御世、丸邇臣(わにノおみ)の先祖、日子国夫玖(ひこくにぶく)命が丸邇坂に祭祀用の甕(かめ)の忌瓮(いわいべ)を据えて神を祀ったとあります。

 櫟本(いちのもと)高塚公園

 「和爾坐赤坂比古神社」の鎮座する集落から南西へ出ると、南側の高台に「櫟本高塚公園」があります。かって、この辺りが東大寺領だったので、付近一帯の丘陵を通称「東大寺山」と云い、丘陵に「東大寺山古墳」「赤土山古墳」「和爾下神社古墳」等、古墳時代の大型前方後円墳があり、総称して「東大寺山古墳群」と呼び、「櫟本高塚公園」に遊技広場、多目的広場、遺跡の丘、小広場、休憩広場などがありますが、発掘調査で、古墳時代の建物跡(柱穴の跡)が見つかっています。掘建柱跡の形態や規模から特殊な扱いを受けた建物の跡と思われ、盆地を見下ろすような丘陵上に造られた古代の祭祀場でないかと推定されています。

 和爾下神社の拝殿(本殿は重文)

 「櫟本高塚公園」から丘陵の裾に沿って南へ行くと「和爾下神社古墳」の上に「和爾下神社」が鎮座しています。769年(神護景雲3年)東大寺領の櫟庄へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移して、道も新しく真っ直ぐに作られたので、この森を治道の森と云い、宮を「治道社」と云って、櫟本辺りにいた一族の氏神でしたが、今は櫟本町の鎮守の神社です。この治道社(春道社とも云う)の祭神、素盞鳴命の本地が牛頭天王であるから、「天王社」とも呼ばれ、また、丘下に建てられた「柿本寺」との関係から「柿本上社」とも云われたが、明治初年に延喜式内の「和爾下神社」がこれに当たると社名変換しました。




奈良観光表紙に戻る  北山の辺の道散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む