興福寺   その4

興福寺の「大湯屋」

 「五重塔」の東側に昔のお風呂、重文の「大湯屋」が建っています。創建年代不詳で、現在の建物は室町時代の中頃に再建され、中世以後ここが大衆蜂起の衆議所としても使われました。今は柵があって中に入れないが、中に口径136cmの大きな鉄の湯釜が2基あります。なお、屋根は東面をストンと切り落とした切妻造ですが、西面は少しひさしを出した入母屋造になっています。この様に屋根が東西の面で造りが異なっているのが湯屋の屋根の特長です。形式としては、これが普通の造りで、東大寺へ行かれたら、「鐘楼」の北側、崖の下にもっと大きな「大湯屋」があって、やはり同じ様に東西の面で屋根の造り方が違います。
興福寺の「菩提院大御堂」

 興福寺の境内から南側へ出て、三条通りを渡った所に在るのが、三作石子詰の伝説で有名な「菩提院大御堂」で、三条通りに面して、入口に木の柵が有りますが、これは鹿が入らない為のもので、別に鍵も掛かっていませんから押して入れます。通常「十三鐘」の俗称で知られ、最初の御堂は、聖武天皇の奈良時代、733年(天平5年)玄オ(げんぼう)僧正の建立ですが、現在の建物は1580年(天正8年)に再建され、昭和45年大修理されました。ご本尊は重文の木造阿弥陀如来座像、脇侍が観世音菩薩立像と勢至菩薩立像(いずれも鎌倉時代)、その他に不動明王座像や、朝近(ちょうきん)上人感得の秘仏稚児観音が安置され、子供の守本尊で交通安全祈願、入学及び進学の祈願仏です。
亀石の上の三作「供養塔」

 昔、興福寺の小僧さん達が御堂で手習い(習字の稽古)をしていた時、一頭の鹿が三作の大切な草紙(習字の紙)を食べたので、三作がケサン(文鎮)を投げると、鹿の急所に命中し、鹿を殺して終いましたが、当時、「春日大社の神鹿を殺した者は、石詰の刑に処す」と云う掟があり、三作は子供とは云え、13才にちなんで、一丈三尺の縦穴を掘って、死んだ鹿を抱いて縦穴へ入れられ、石と瓦で生き埋めにされました。三作は、父が早く亡くなって、母1人子1人で暮らしていたが、その日より母「おみよ」さんは三作の霊を弔う為、明けの七つ(午前4時)、暮れの六つ(午後6時)に鐘を撞いて供養に勤めると、49日目に観音様が現れて、それが現在大御堂に秘仏として安置されている「稚児観世音菩薩像」で、境内に「三作の供養塔」が建ち、この悲話は、越前生まれの浄瑠璃・歌舞伎作者「近松門左衛門(本名杉森信盛)」、別号巣林子(そうりんし)が1700年頃(元禄年代)世話浄瑠璃「十三鐘」と題して脚本し、有名になりました。
 興福寺「旧東円堂跡」の「奈良の八重桜

 現在の奈良県庁駐車場(有料)の所に、1139年(保延5年)鳥羽天皇の皇后で麗人の誉れが高かった待賢門院(藤原公実の娘・璋子)が建立した興福寺の「東円堂」がありました。本尊は、現「南円堂」本尊と同様、丈六の「不空検索観音」を安置していたが、1791年(寛政3年)発行の「大和名所図会」では既に「東円堂」も礎石だけで、跡に桜が1本描かれ、「延宝の頃(1670年代)まで此処に八重桜ありけるが、今山桜一株あり、これも古木にあらずとなん」と説明があるのみで、後に名桜も枯死し、旧奈良師範学校になって、校門内の「八重桜古跡」に「奈良の八重桜」の若木が植えられ、4月下旬に花が咲きます。


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