金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その22

 国史跡「額田部(ぬかたべ)窯跡」

 なお、「額安寺」の本堂は、1606年(慶長11年)建立で、幅12m、奥行9m、高さ25m、平成17年11月2日解体修理が完成し、本尊「十一面観世音菩薩立像」は室町時代中期の彩色仏です。また、境内に重文の「鎌倉五輪塔(忍性墓)」が建っていますが、当寺から少し西へ行き、直ぐ右へ折れ、道を横切って集落を北へ抜けると、鎌倉時代に叡尊忍性により「額安寺」再興の瓦を焼いた「額田部窯跡」があります。昭和3年用水池を掘る際、地下1mの所から3基出土し、現在1基が覆屋内に保存され、床に溝を入れた「ロストル(火格子)式」の平窯で、平瓦、丸瓦の他に、若干、文様のある瓦も焼いていた様です。
 重文「額安寺五輪塔(鎌倉墓)」

 「額田部窯跡」から、ちょっと右(東)へ行くと、「額安寺五輪塔」が建っています。「鎌倉墓」とも云われ、8基の五輪塔の内、東端及び南から4番目の塔にのみ、永仁五年(1297年)の銘があり、この頃造立されたものと思われます。昭和57年の解体修理の際に行われた地下調査により、南端の忍性墓のみが建立当初の位置を保っていることが判明し、土中から宝瓶型の精巧な作りで忍性の銅製骨蔵器・善願の骨蔵器等7点と付属品4点の計11点が出土しています。なお、忍性は、1217年(建保5年)大和国磯城郡屏風村で生まれ、1303年鎌倉の「極楽寺」で没。
 良福寺(りょうふくじ、文殊堂)

 「鎌倉墓」から「額田部窯跡」に戻って、集落から西へ行き、バス通りを渡って西町の集落を右(北)へ入ると、昭和59年「良福寺跡」に地元の人達が建立した「西町文殊堂」があります。堂内の「文殊菩薩坐像」は、市指定文化財で、木造漆箔塗、座高45cmほどの小さな像です。獅子に騎乗し、蓮華座に座って右手に剣を、左手に蓮華を持ち、透かし彫りの光背をもっているが、本体以外は後で補ったものです。頬に張りがあり、体躯の肉付きも充実し、袖衣のひだの流れもみごとで、鎌倉時代末頃の精緻な作風を良く現していますが、作者は明らかでなく、西大寺の大仏師で善慶の子の善春か、その弟子達の1人と思われます。
 椎木町の県文化「杵築神社」

 「良福寺」から西へ行き、大きな道路へ出たら北へ向かって、「西名阪自動車道」の下をくぐり、椎木(しぎ)町の集落で左(西)へ入ると、大和郡山市内に5つある「杵築(きずき)神社」の1つが鎮座しています。祭神は素盞鳴命、誉田別命(応神天皇)、天児屋根命。本殿は県文化で、三間社流造、檜皮葺、組物の形式や向拝柱の面取りが大きく、向拝正面を頭貫(かしらぬき)とし、連三ツ斗(つれみつど)で無い所等に古式を伝える部分もあるが、全体的に見ると室町中期頃までの建立と考えられます。また、拝殿の北側にも小さな経蔵で県文化の「宝蔵」があり、一辺が9尺(2.7m)程ですが、棟木に銘があります 。




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