奈良町  その15

 旧「笠屋町」の「鎧(よろい)地蔵大菩薩」

 「福智院」から東へ行って、バス通りへ出るまでに左へ曲がって、細い辻を南へ向かうと、次の四つ角に「地蔵堂」があり、暗い堂内を懐中電灯を点けて覗くと、中央に鎧を着し、鉾を持って馬に乗った石の地蔵が祀られています。福智院伽藍古絵図に「勝軍地蔵」の祠が同院の敷地境界線の四隅に描かれているので、巽(東南)の角にある「鎧地蔵尊」がその1つと思われます。勝軍地蔵は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で戦勝を祈ったのが始まりで、旧笠屋町では、「大火の時、堂の近くに火の手が及んだが、火災に至らず」、また「第二次世界大戦の時、笠屋町出身の兵隊さんからは1人も戦死者が出なかった」と、伝えられています。
 国史跡「頭塔(ずとう)」

 「福智院」北側の塀に沿って真っ直ぐ東へ向うと、バス道路の手前に「頭塔」が在り、見学は向いの福田家に申し出て200円払うと側まで行けますが、バス停「破石町」前の「厚生年金・飛鳥荘」の玄関前から良く見えます。767年(神護景雲元年)良弁僧正の命によって実忠和尚が東大寺の朱雀の末に造立した方形三段の土塔で、奈良時代の石仏13体を安置していますが、また、福智院開祖・玄ムの首塚とも云われ、746年(天平18年)6月18日藤原広嗣の亡霊によって、筑前大宰府の観世音寺で首を取られた玄ムの頭が奈良まで飛来して、それを埋めた塚だそうです。
 奈良教育大学内の「吉備塚」

 バス停「破石町」からバス道路を南下すると、次のバス停が「高畑町」で、左(東)側が奈良教育大学、校内の北側に「吉備塚古墳」が在ります。吉備眞備のお墓と伝えられ、眞備は、695年(持統9年)3月28日岡山で生まれ、若き日、一度目は遣唐留学生、二度目は遣唐副使に選ばれ、在唐17年、長安の都においても、その学識が高く評価されました。帰国後、春日大夫として皇太子の教育にあたり、大学寮の整備や、東大寺の造営につくし、天平文化の一翼を担いました。また、塚は、鬼界ケ島に流された俊寛の塚とも云われ、塚に触ると祟りが有り。なお、塚から神仙を象眼したものでは国内初の鉄製大刀が出土しました。

 志賀直哉旧宅(TEL 0742-26-6490)

 市内循環のバス停「破石町」から北へ行き大きな交差点を右へ折れ、東へ350m行き、小道を左(北)へ入ると、角に「志賀直哉旧宅」が在り、文豪志賀直哉が自ら筆を執って設計した二階屋の住宅で、一般に公開されています。入館は、9:00〜16:00、毎週木曜が休館です。なお、彼は尾道を始め生涯20数度の転居を繰返し、他では数年余の短期間なのに、奈良では大正14年〜13年間も住み、ここで「暗夜行路」を執筆しました。一時取り壊しが決定したが、市民運動の結果、大学のセミナーハウスとして利用される事になり、見学すると、家族や友人との交流に対する直哉のきめ濃やかな配慮が伺えて興味深いです。




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