「大塔町」から平家落人の里「野迫川村」と「高野山」  その4

 平維盛(たいらノこれもり)塚

 野迫川村平の集落へ入ると、左手にこんもりとした「平維盛塚」があります。源平合戦において、一の谷で敗れた平家が屋島へ逃げ延び、平宗盛の下知により1184年(寿永3年)平維盛26才は、熊野水軍に援軍を求めるため、熊野別当田辺湛増のもとへ使者として派遣されたが、湛増は援軍を断わって、代わりに姫を娶らせて匿い、源氏追討から維盛を守りました。しかし、1189年(文治5年)源頼朝が維盛の逮捕令を発令し、一大平家狩りをおこなったので、維盛は奧熊野の山岳地帯に逃げて、1216年(健保4年)再び、主従は紀伊山岳路を北上して野迫川村へ至り、1219年(承久元年)維盛はここで終焉しました。
 平維盛歴史の里(TEL 07473-8-0047)

 「平維盛塚」の北麓に「歴史資料館」があります。数寄屋風の立派な建物が並ぶ館内には、平維盛が熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝える数々の資料を展示・保存すると同時に維盛にまつわる多くの伝承を映像・ジオラマ・レプリカなどを駆使して再現しています。また、野迫川村の自然が生かされた敷地内には、維盛塚を中心に花鳥風月の庭、ツツジ園、紫陽花園、散策の路、展望台等が整備されているので、伝説のロマンに思いを馳せて、心和む散策のひとときを過ごす事が出来ます。なお、平維盛歴史の里「春の大祭」は、5月中旬の日曜日、「秋の大祭」は、10月中旬の日曜日に行われます。
 野迫川「勝手(かって)神社」

 「平維盛塚」から県道川津高野線を隔てて直ぐ北に吉野「勝手神社」の分祀社、野迫川の「勝手神社」が鎮座します。なお、狭い神社境内の北端に「井戸杉」が植わり、2本の杉が寄り合って1本の巨樹となっています。推定樹齢500年、幹周り5.5m、樹高が20mあり、御所市西佐味の「大川の神杉」のように根元から冷水がこんこんと沸き出し、昔は村中の人がその水を飲料水として使っていました。よって、村人達は、この杉を「井戸杉」と呼んで、神木とし大切に今に至るまで守護して来ました。また、神社前に今は休校の平小学校があり、校庭に「イチョウ」の巨樹も植わっていて、幹周り4.2m、樹高が20mです。
 野迫川村の「不動滝(落差20m)」

 「平維盛(たいらノこれもり)塚」のある野迫川村平(たいら)から野迫川村北今西の大股(おおまた)へ至る途中で、右(北)側の山中へちょっと入ると、「不動滝」があり、水量豊富な段瀑です。なお、不動と名を付けた滝は、日本全国至る所、無数にありますが、そもそも「不動明王」は、久遠の昔に成仏して、既に大日如来の座にすわっていましたが、強剛難化の衆生が、むさぼり、いかり、ぐちを云う沈んだ世界を見て、「衆生は無辺なり、誓って渡せんことを願う」と大誓願を立て、それを達成するために、身を奴僕の相に変じ、今では大日如来の使者として、世に沈んで止まらない愚者を救済するために示現されましたが、元々はインドで破壊(死)と創造(生)を同時に掌るヒンドゥー教三大神の1神・シバ(湿婆、Siva)で、シバ神はまた変幻自在いろいろな姿をとり、その中の1つが「不動明王」です。故に、「滝」の荘厳な姿があたかも「不動明王」の姿に見える時、擬せられた滝の名を「不動滝(ふどうノたき)」と呼んでいます。




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