「大塔町」から平家落人の里「野迫川村」と「高野山」  その6

 天分神社の桧(ひのき、檜)

 「野迫川村北今西」の集落から更に「川原樋川」に沿って西へ向かうと、野迫川村桧股(ひのきまた)で道が三叉路になっています。左(南)の方へ曲がると「弓手原川」に沿って「野迫川村弓手原」へ至り、又右(北)へ行くと「桧股川」に沿って小さな「桧股」集落の方へ向かい、川を夾んだ対岸に「天分神社」が鎮座しています。本殿の裏に野迫川村指定天然記念物「檜(ひのき)」の巨樹が植わり、幹周り5.5m、樹高23m、地上3mで幹が二股に分かれ、よって、ここら辺を「桧股」と称しています。また、750年(天平22年)の高野山の古文書にも「檜木俣」と、載っているので樹齢1250年以上と推定されます。
 鶴姫館(TEL 07473-7-2101)

 「野迫川村桧股」から「桧股川」沿いに北上して、川が途切れた辺りでヘアピンの急坂を上がると、国道371高野龍神スカイラインで、南へ28キロ行くと「龍神温泉」。北へ20キロ行くと「高野山奥の院」へ至りますが、北進して直ぐ右側が「鶴姫公園」で、展望台「鶴姫館」があり、館では、稗搗節(ひえつきぶし)で歌われる那須与市の弟大八郎を慕って椎葉村からこの地へ来て倒れた鶴姫のロマンを紹介し、展望塔から晴れた日には淡路から四国までを望み、また、3基の風力発電は真っ白いタワーが鶴姫公園の緑と良くマッチして、青空に向かってそそり立つ雄大な姿が村の新名所になり、夜は満天の星空が輝いています。
 弘法大師御衣干岩(TEL 0736−56−3452)

 国道371号線(高野龍神スカイライン)を左へ曲らないで、右へ曲って、橋本の方へ向うと、トンネルを抜けて、5分ばかり行った処に「弘法大師御衣干岩(おころもほしいわ)」が在ります。今から約千百余年前(大同元年)弘法大師が唐から持ち帰られた宝珠を山に埋めるため、高野町南の山道から山へ向われたとき、突然夕立にみまわれ、濡れた衣を乾かすのに置かれた岩です。それから山頂へ宝珠を埋め、その山を摩尼山と名付け、付近の村が唐のある村(摩尼)に余りにもよく似てたので、摩尼と名付けられました。昔から言い伝えで、この岩に触って、御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えると、一つだけ願いが叶います。
 高野山奧の院「御廟橋(無明橋)」

 「鶴姫公園」から更に北へ向うと、野迫川村総合案内所「レストラン鶴姫」があり、村の様々な情報を提供し、特産品やお土産を販売しています。また、高野龍神スカイラインを北へ行くと、バス停「奥の院前」から親鸞の墓など約20万基に及ぶ墓石群が並ぶ参道(公園墓地)を通り高野山「奥の院」へ向うと、死者生前の滅罪灌頂を行う「玉川」に空海が助けた焼き魚(タカハヤ)が泳ぎ、「御廟橋」が架かっています。ここから奥が大師廟等の建つ浄域(撮影禁止)で、橋板37枚は、金剛界37尊を表し、板裏面にそれぞれ種子(梵字)が刻まれ、古くから大師が参詣者をこの橋まで出迎えて、また、帰りに見送って下さいます。
 金剛三昧院の「多宝塔」と「石楠花」

 バス停「奥の院前」からバス通りを西へ1.8キロ4つ目のバス停が「小田原通」で、そこを左(南)へ曲がって突き当たると「金剛三昧院」です。源頼朝の妻北条政子が頼朝亡き後、入道し二位禅定如実と称して、1211年(建暦元年)大壇主となり、秋田城介泰盛が建立奉行を務め、開山は行勇荘厳房です。本尊「愛染明王」を安置し、初めは「禅定院」と号して、1219年(承久元年)源実朝の菩提を弔う為に改建し、金剛三昧院と改号して、1223年(貞応2年)頃堂舎が整い、鎌倉源氏三代に渡る将軍の菩提所で、境内には国宝の「多宝塔」などがあり、5月上旬頃に参詣されると、天然記念物の「石楠花」が見事です。




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