奈良市西部から茶筌の「高山」辺り  その10

 城南西国第18番札所「来迎寺」

 「畑ノ前遺跡」から更に東へ行くと、南北に並行して走るJR片町線と近鉄京都線に至り、JRの線路に沿って北へ向うと、線路と反対の西側の高台に、西山浄土宗引接山「来迎寺」があります。750年頃行基が山城国の布施屋として創建された寺院で、1810年代の文化文政時代に再建された旧本堂は藁葺、平屋建民家風の建物でしたが、老巧化が甚だしく、平成になって本堂、山門、鐘楼、客殿、庫裡の全てを総工費約5億円で新築されましたが、多額の工事費用は檀信徒二百有余名による浄財の寄進と地元植田区の助成によって賄われ、設計および工事施工は彦根市の宮大工・西沢工務店が行い、平成9年落慶法要されました。
 「お千代と半兵衛」の墓

 なお、「来迎寺」の境内の角に「お千代と半兵衛」の墓があります。江戸時代の中頃、上田村(現在の精華町植田)の大庄屋島田平右衛門の二女お千代が大阪靭(うつぼ)の八百屋伊右衛門の養子半兵衛と夫婦になったが、姑と折り合いが悪く離縁になり、帝釈天の縁日でにぎわう庚申の前夜、1721年4月6日大阪生国魂神社の境内で、身重のお千代と半兵衛が手を取り合って夫婦心中をしました。これを素材にしたのが浄瑠璃作家・近松門左衛門の晩年の代表作「心中宵庚申(しんじゅうよいこうしん)」で、墓はお千代の父・平右衛門が菩提寺である「来迎寺」に建立し、永代供養を行っていましたが、現在は二代目の墓石です。
 来迎寺の「梵鐘」と「クスノキ」

 また、「来迎寺」の境内で、南東の角に「梵鐘」が懸かっています。1713年(正徳3年)南稲八妻出身で中興の覚蓮坊領誉上人の発願で、南都の住人藤原国重が鋳込み、鐘の響きが良いので「お千代鐘」、大晦日にこの鐘の音を聞くと、借金取りも切り上げたので「厄払い鐘」、また、第二次世界大戦中、近畿・中国地方2府6県で鋳造から300年未満の鐘8060個が岡山県の三菱精錬所直島工場へ送られ、終戦の時に残存したのは309個、京都府の関係では37個、その内の1つが「来迎寺」の鐘で「生き残り鐘」「延命鐘」とも云われ、なお、毎年除夜には100人余りが撞く「福徳鐘」です。また、梵鐘の後ろの巨木は、「京都の自然二百選」が選定した「クスノキ」です。




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