奈良県と奈良市の花、国の天然記念物、
学名「奈良の八重桜」のこと

 奈良時代、平城京では、柳や桜が数多く植えられていましたが、ある時、三笠山(現在の若草山)の奧、「鶯ノ滝」辺りで、第45代聖武天皇が八重桜を見つけ、それを宮中に移し植えたら、咲いた花が余りにも美しく珍しいので、光明皇后をはじめ、宮廷人に大いにもてはやされたと言うことが、江戸時代の始め、1678年(延宝6年)大久保秀典、林伊祐らが書いた「奈良名所八重桜」に載っています。

 そして、都が平安京に遷って第66代一条天皇の時、藤原道長の娘で、紫式部らの女房にかしづかれていた一条天皇の中宮・彰子が、興福寺の境内に植わっていた八重桜の噂を聞き、宮中の庭へ植え替え様として、使いをやり荷車で運び出そうとしたら興福寺の僧が追って来て「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」と云ったので、彰子も断念し、それから毎年花の頃に「花の守り」を遣わし、今でも伊賀上野には「花垣の庄」と呼ばれる花守の子孫がいて、「奈良の八重桜」を霊木として守っておられます。

 また、それから一条天皇の時、奈良の八重桜の一枝が宮中に献上され、その年の花の受取役、伊勢大輔(いせのたいふ)が、その花を見て詠んだのが「詞花集」から「小倉百人一首」第61番に載せられたかの有名な次の歌で、

 いにしえの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな

 なお、この歌の「ここのへ」は、「九重」のことで、桜の花びらが八重、九重と重なっている様と、禁中(宮中、九重)の事とにかけられていますが、八重桜の美しさと、歌の見事さに宮廷人の皆が感嘆したと、平安時代末、1156年頃(保元年間)藤原清輔が書いた「袋草紙」に載っています。

 また、この歌の名声は、1127年(大治2年)の「金葉集」、1144年(天養元年)の「詞花集」や、「伊勢大輔集」にも載っており、院政末期の「古本説話集」等にも語り継がれています。

それによると、一条天皇の中宮(ちゅうぐう)・彰子(しょうし)に仕えたばかりで、新参(しんざん)の若い女房(にょうぼう)だった伊勢大輔(いせノたいふ)は、代々歌人の家柄に生まれ、祖父が伊勢大神宮の祭主・中臣能宣言(おおなかとみノよしのぶ)、父が輔親(すけちか)で、皆そろって歌人の誉れが高い家系でしたが、 奈良の僧都(そうず)から八重桜が宮廷に届けられた時、使者から桜を受け取り、お前に捧げるお取り次ぎは、やはり中宮彰子に仕える紫式部でしたけど、古参女房の紫式部が意地悪をして、桜を受け取る時に歌を詠まなければならないお取り次ぎを、伊勢大輔にさせて恥をかかせようとしましたが、そこは歌詠みの家柄、家門の名誉に恥じぬ 見事な歌を若く女らしい良く透き通る声で詠み、皆の賞賛を浴び、中宮彰子も喜ばれて、次の歌を返されました。

 九重に にほうをみれば桜狩(さくらがり) 重ねてきたる春かとぞ思ふ

 所で、「奈良の都の八重桜」として初めて記録に登場するのは、1106年(嘉承元年)と1140年(保延6年)に大江親通が南都を巡礼したときの記録「七大寺巡礼私記」です。それによると、奈良の都の八重桜は、興福寺の東円堂(奈良師範学校の跡、現在の県庁東側の駐車場)にあって、その桜は、他の桜が全て咲き終わり、散ってしまってから咲く、遅咲きの桜であると書かれ、現在指定されている学名「奈良の八重桜」と同種のものと思われます。

 その他、「奈良の八重桜」のことは、鎌倉時代に書かれた「源平盛衰記」、1350年(観応元年)吉田兼好の「徒然草」、1719年(享保4年)新井白石の書いた「東雅」、1791年(寛政3年)秋里籬島の描いた「大和名所図会」等にも記されています。

 だけど、古歌に詠まれ、書物、図録にも記録として残されている八重桜が、はたしてどの様な木なのかはっきりしていないまま、大正11年の春、東大寺知足院を訪れた三好学(まなぶ)博士によって、裏藪の中に人知れず咲いていた気品のある八重桜が、古い記録にある八重桜と同種であると見なされ、翌年3月「知足院奈良八重桜」として国の天然記念物に指定され、史跡、文学、植物学の上から貴重な存在となりました。

 なお、その後の調べで、東大寺春日大社春日大社摂社若宮神社奈良公園の一部、県公会堂、奈良女子大学、奈良師範学校(現在の奈良教育大学)などにも僅かながら存在していることが判り、また、1839年(天保10年)桂離宮に園林堂を建てた時、奈良から移植されたものが、桂離宮と京都市右京区の宝鏡寺にあると判明しました。

 「奈良の八重桜」の品種については、植物学者の間でも議論が分かれ、説が定まらず、サトザクラの稀品で、元はケヤマザクラから派生したものとする牧野富太郎の説。葉の鋸葉、毛の程度、花期などから見てヤマザクラ系と云うより赤芽系のカスミザクラ系とする舘脇操の説などがあり、小清水卓二博士が奈良の八重桜の種を蒔いて、10年後に開花したものを調べた結果、80%がオクヤマザクラ(ケヤマザクラ)、17%がヤマザクラ、3%がナラノヤエザクラになって、ナラノヤエザクラの原種は、他の特長も考慮し、赤芽系のオクヤマザクラ(ケヤマザクラ)と云われています。

 また、桜の最後を飾る「奈良の八重桜」の花期は、4月下旬〜5月上旬で、花が開き始めるといっぺんに咲き、3日間で終わってしまうから、よく見計らっておかないとシャッターチャンスを逃します。蕾の頃は、濃い紅色をしていますが、花が開くと白に近い淡い紅色になり、散り際に花びらがまた紅色を深め、可憐で葉の陰に隠れる様にひそやかに咲きます。花びらの数は、20〜35枚、まれに16枚や、逆に100枚の特異なものもあり、雄しべは花びらの数に反比例して、一般に40本ぐらいで、花の大きさは小さくて、2.5〜3.5cmほどです。普通、八重桜は、実が付きにくいけれど、奈良の八重桜はよく実が付いて、発芽力も旺盛です。

 そして、奈良の八重桜は、昭和43年3月1日奈良県の県花に選ばれ、また、奈良市の花にも指定されて、「天然記念物知足院奈良八重桜」の記念碑が建っている知足院の八重桜15本ばかりを原木として、今では奈良県庁の斜め前や、平城京跡朱雀門の斜め前などにも苗木が植えられ、奈良県内の公園や施設において1万本以上の「奈良の八重桜」が植わっています。また、奈良から伝えられたものとしては、三重県名賀郡花垣村予野、新潟市白山浦阿部氏宅などにも植わっています。

東大寺転害門を入った鼓阪小学校の前
  
奈良の八重桜(県庁駐車場)の桜ん坊
  
東大寺知足院の記念石碑
「天然記念物知足院奈良八重桜」
が建っている所の原木の桜
東大寺大仏池の側に植わっていた
「奈良の八重桜」

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