石仏の里「当尾(とうの)」  その1

 浄瑠璃寺(TEL 0774-76-2390)

 京都府歴史的自然環境保全地域の「当尾の里」は、奈良「興福寺」別所として仏教文化が花開いた地で、真言律宗、小田原山の「浄瑠璃寺」もその1つです。739年(天平11年)第45代聖武天皇の発願で、行基に勅して開かれたと云われていますが、寺伝では檀那(だんな)阿知山大夫重頼が開いた西小田原浄瑠璃寺が前身で、1047年(永承2年)7月18日清らかな湧水の畔に、一木(いちぼく)造の薬師如来像を安置したのが始りです。なお、浄瑠璃寺へは、近鉄奈良駅から「浄瑠璃寺行」のバスが、毎時11分発で1時間に1本出ていますが、これ以外のJR加茂駅行のバスでは、途中の浄瑠璃寺口から徒歩30分です。
 浄瑠璃寺の国宝「三重塔」

 山門を入ると、真ん前に、1150年(久安6年)伊豆僧正御房恵信が掘った12300平方mの宝池があり、左へ廻ると、脇に鐘楼が建ち、更に東へ進んだら、1178年(治承2年)京都一条大宮から移築され、京都府下で最古の「三重塔」が建っています。檜皮葺の初重に、目鼻立ちのはっきりした重文の秘仏、「薬師瑠璃光如来坐像」が安置され、開扉は、毎年正月の三ケ日と、毎月好天の8日、それに春と秋の彼岸の中日です。所で、釈迦が没した現世は、1052年(永承7年)から末法の世で、衆生を救うのは釈迦滅後56億7千万年経って現れる「弥勒如来」です。それまでは、東(太陽の昇る東は、過去の浄瑠璃浄土)にいる過去仏の「薬師如来」が、過去の因縁や無知でなされた闇黒無明の現世に住む人々の苦悩を遠い後方から抜苦与楽の法薬で救済し、清潔な瑠璃光で汚れた者を清め、「阿弥陀如来」の居る西方の極楽浄土へ人々を送り出して呉ます。だから「薬師如来」は、遣送仏と言われ、東方はるか清浄な浄瑠璃浄土に居ます。
 浄瑠璃寺の本堂「九体阿弥陀堂」

 「三重塔」と相対し宝池の西側(夕日が沈む西は、未来の極楽浄土)に東向きで建つのが「本堂」です。九つの扉の中に九体阿弥陀如来を安置し、それぞれの扉から如来の所へ行く人は、菩薩行を実践された上品(じょうぼん)の人、実践途上の中品の人、実践以前の下品(げぼん)の人で、更に三品に上、中、下が有り九段階に分かれて迎えられます。なお、本堂は「九体阿弥陀堂」と呼ばれ、1107年(嘉承2年)創建、中央の如来は、座高221cm、両手で輪を作って臍の前で組み、両手の薬指を立て上品下生(じょうぼんげしょう)印、他八体の如来は、座高約140cm、両手の人差指を立てた上品上生の印を結んでいます。
 赤門の「水呑み地蔵」

  「浄瑠璃寺」の山門を出て、左に馬酔木が植わっている参道へ戻ると、右に茅葺の「あ志び乃店」が在り「味自慢とろゝ定食」の幟が立っています。そして、参道の端の四辻で右(南)へ曲がって、落ち葉の敷き詰められた山道へ分け入り、そのまゝ真っ直ぐ進むとバス停「浄瑠璃寺南口」へ至るけど、途中で2つ目の二股道で左へ曲がって、山を下って行くと少し開けた窪地に「水呑み地蔵」が在り、傍らから今も水が湧き出ています。また、ここら辺りを赤門坂と云い、奈良から笠置、伊賀への古道が浄瑠璃寺の南東をかすめ、昔は、ここに休茶屋も在ったそうです。なお、地蔵は覆屋の火災で痛んでいても、鎌倉時代中期の作です。




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