月ヶ瀬 その11
 大和街道「三本松の池」

 「大和街道」を芭蕉の句碑が建つ所から登って行くと、三本松峰に至り、「太神宮万人講燈籠跡」の碑が建っていますが、燈籠は倒れて今は無く、江戸時代はこの辺りに茶屋があり、藤堂藩から補助が出て、無料でお茶の接待をしていました。峰の頂上から「大和街道」を西へ進んで下ると、伊賀上野と島ヶ原の国境に「三本松の池」があります。池の堤防上の道を過ぎて突き当たり、右へ折れ車道と分かれて真っ直ぐ進み、道なりに左へ曲って行くと、芭蕉が尻餅を搗いた「尻もち坂」に至り、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅の後、1694年(元禄7年)5月伊賀上野の生家からまた「大和街道」を通って京都の加茂へ出かけています。
 峰の六地蔵磨崖仏

 大和街道「芭蕉の尻もち坂」を過ぎると、また車道と合流して、やがて集落へ入ると、大和街道から左へ折れて真っ直ぐ進み、集落を抜けた所で左側の竹薮の中の細い道を下りて、美しい苔に覆われた竹林を進むと、突然「峰の六地蔵」が眼前に飛び込んで来ます。幅5.6m、高さ1.7mの自然石に身の丈一尺六寸(約53cm)のお地蔵さんがそれぞれ持ち物を変化させて、蓮華座に立った姿で六体彫られ、向って左に「本願沙佐」、右に「道満、妙徳、結縁」と刻まれ、室町時代末期の作と推定され、伊賀市の指定文化財です。なお、普通「六地蔵」は身の丈一尺(30cm)の化身が一般的だが、ここはかなり大身の地蔵です。
 奈良街道「与右衛門坂」

 また、大和街道へ戻り、集落の中の坂道を下ると、急に左へ曲がって滑り落ちた所が「与右衛門坂」で、

 笠置峠か 与右衛門坂か
 江戸の箱根は なけりゃよい (俚謡)

と歌われた大和街道の難所で、付近一帯にかって多数の馬車屋があり、大和街道は、江戸時代には加太越え奈良街道と呼ばれ、東海道関宿の西の追分から上野宿を通り、島ヶ原に入って、更に西へ向い、加茂宿から奈良へ至る道で、明治時代以降は奈良街道、または、大和街道と呼び、坂の名称は藤堂高虎の通称名です。




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