山背(やましろ)古道  その13

 「高倉神社」と「以仁王(もちひとおう)墓」

「綺原神社」から又直ぐ北側の「天神橋」を渡り堤防から下の「山背古道」をしばらく北上して、左へ曲がって西へ行くと「高倉神社」が鎮座しています。当社は、当地で亡くなった後白河法皇第二皇子「以仁王」を祀った神社で、境内の一画に宮内庁が管理する「以仁王の御墓(ぎょぼ)」があります。「平家物語」によると、以仁王は、源頼政の勧めによって、平清盛とその一族追討の令旨(りょうし)を諸国の源氏方に当てて出したが、1180年(治承4年)5月15日それが露見し、宇治川合戦に破れて平家方に追われ、奈良の興福寺をたよって落ち延びる途中で、昔あった光明山寺の鳥居の前で流れ矢に当たり落命しました。
 浄妙塚(じょうみょうづか)

 「高倉神社」から西へ行き、JR奈良線の踏切から南方約100m先を見ると、線路の東側、田圃の中に「筒井浄妙(つついじょうみょう)墓」と伝えられる塚があります。なお、この塚も、以仁王墓(もちひとおうぼ)の陪冢(ばいちょう)として、王墓とともに宮内庁が管理しておられます。また、「筒井浄妙」は以仁王に従った三井寺の堂衆で、「平家物語」「源平盛衰記」に書かれている宇治川合戦で活躍した武勇の僧兵で、京都祇園社(八坂神社)の「祇園祭」で見られる山鉾(やまぼこ)「浄妙山」は、一乗法師(いちらいほうし)と浄妙の奮戦振りが模され、一乗法師が片手をついて浄妙を飛び越える場面を現しています。
 高倉山「阿弥陀寺(あみだじ)」

 なお、「浄妙塚」の少し南方を東西に流れる小川は「野田川」で、別名「門口(もんぐち)川」とも呼ばれ、現在は廃寺ですが、かってあった「光明山寺」の門の近くを流れていたので、そう呼ばれております。また、JRの踏切を渡って、交差点へ出たら、古道を北へ向かうと、直ぐ道に面して右側に「阿弥陀寺」があります。開基は、僧の円輪(えんりん)です。元は「阿弥陀堂三艸庵(あみだどうさんそうあん)」と称していましたが、以仁王が落命した際に仏事を営み、これに因んで、1192年(建久3年)に山号を「高倉山」とされ、境内に厚肉彫(あつにくぼり)の石仏「阿弥陀如来坐像」が安置され、鎌倉期の優品です。




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