山背(やましろ)古道  その20

 中天満(なかてんまん)神社

 「龍福寺」の石段を下りて直ぐ、集落の方へ行かず右へ曲がって北へ辿ると、民家の脇の細い道に出て、山の際に「中天満神社」が鎮座しています。旧中村の産土(うぶすな)神で、祭神は、菅原道真です。創建および沿革は、明らかでありませんが、社殿に残されている棟札(むなふだ)の内で最も古いものとして、慶長十一年(1606年)のものがあり、本殿は覆屋(おおいや)を持つ1間社流造、檜皮葺で、正面の梁上の蛙股(かえるまた)に古い様式を示す鳥獣の透彫が見られます。また、江戸時代に、境内で「雨乞い」が行われ、1867年(慶応3年)の「おかげ踊り」を描いた絵馬が拝殿の正面の上に掲げられています。
 黒土古墳群「1号墳」

 なお、「中天満神社」周辺の丘陵端部および斜面や尾根上には、10基からなる古墳が存在して、「黒土古墳群」と呼ばれています。その中で最大のものは、境内の北側にある「1号墳」で、直径約26m、高さ約5mの円墳です。墳丘は丘陵の端を整形した盛り土で、埋葬部は南西方向に入口をもつ横穴式石室ですが城陽市域では、最大規模と思われ、6世紀後半頃に造られたものと考えられています。なお、「1号墳」の他にも、「1号墳」東側の丘陵斜面と尾根上に3基、「中天満神社」本殿の裏側に1基、境内の南側斜面に5基の古墳があります。そしてまた、城陽市南部の丘陵には、2〜10基程度の古墳群が他にもあります。
 「山の神」を祀る「三の口」の祭壇

 「中天満神社」の鳥居の前から北へ向かって直ぐ、右(東)に曲がり、山の方へ向かうと、暫く行って、樫(かし)の木などが繁る「聖なる林」があり、そこで、毎年初寅の日に「山の神まつり」が行われます。山の支配者である山の神は、里に豊作をもたらす田の守護神でありますが、しかし、彼が怒ると、大雨等を降らして土砂を流し、里を襲うので、中地区の人々は昔から山と里との境界3カ所にある一の口、二の口、三の口に「山の神」を祀り、山の安全と豊かな暮らしを祈り続けてきました。祭では、「龍福寺」の住職が簡単な祭壇の前で、神木に向かって読経をし、自然を神として崇められ、城陽市指定無形民俗文化財です。
 「青谷(中)梅林」

 山の神を祀る「三の口」を抜けると、日本で見たい梅林九番目に評価された中地区の「青谷梅林」です。20ヘクタールに約50戸の農家が城州白、白加賀、オクフクダルマ等の梅を約1万本栽培されています。梅樹の栽培の起源については、後醍醐天皇の皇子で、宗良親王が詠われた歌に、次ぎのようなのがあって、

 風かよふ 綴喜の里(城陽市)の梅が香を
           空にへだてる中垣ぞなき

鎌倉時代に植えられたとも云われ、江戸時代には毎年青谷川渓流の大谷に淀藩主が観梅に来たと云います。
 旦椋(あさくら)神社

 「青谷(中)梅林」を廻って、また西へ向かうと、南城陽中学校の横の「中谷橋」より1つ上流の橋で、小さな「長谷川」を渡って、住宅地の間を更に進み、三叉路に来たら右へ曲がって東へ行くと、道の左側に「旦椋神社」が鎮座しています。旧観音堂村の産土神で、旦椋(あさくら)は、穀物を収納する校倉(あぜくら)の古語です。また、平治の乱で知られる以仁王(もちひとおう)の胄(かぶと)を祀っていたので、「胄神社」とも称しました。本殿は、覆屋で囲われ、二間社流造、こけら葺で、桃山時代の建築様式を伝えています。なお、境内は、樫(かし)の木が殆どで、緑豊かな鎮守の森を作り、京都府環境保全地区です。




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