吉野  その11

 桜展示園の「大塔宮仰徳碑」

 「竹林院」から更に南へ50m行くと「吉野三橋の一、天王橋」の石碑が建っていて、大塔宮護良親王の吉野城の三つの空濠の1つに架かっていた橋の跡で、この辺りは吉野山の尾根の根本に位置し、ここから右(西)への道は奧吉野周遊ドライブウェイ、左へ少し行ったら三叉路で、そこを右へ登って行くと大峯山への坂道です。直ぐ右(西)側が小高い丘になっていて登ると「大塔宮仰徳碑」が建っています。昭和14年11月3日皇紀二千六百年(昭和15年)と建武中興千六百年を記念して建てられた記念碑で、碑の後方で 一段高くなっている所には「火之見櫓」と彫られた石碑が建っていますが、かっての「のろし場」跡です。
 大門山の「吉水院宗信法印の墓」

 「大塔宮仰徳碑」が建つ「桜展示園」から下りて、また尾根道を南へ登ると、道の脇に「吉水院宗信法印墓」と彫られた石碑が建っていて、石段を上がったら写真の様なお墓が在りますが、吉水院宗信(きっすいいんそうしん)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけ活躍した吉水院の修験僧で、金峯山寺の執行として、大塔宮護良親王を助けて北条幕府と戦い、また後には足利尊氏と仲違いをした後醍醐天皇が京都の花山院を抜け出して吉野へ潜行された時に、吉野一山の大衆を説いて、天皇を吉水院へお迎えて、そこを南朝最初の皇居とし、天皇の信頼の厚い豪僧でした。なお、この辺りから南上は、桜林の九十九折の坂道が続きます。
 御幸(みゆき)の芝の社

 「吉水院宗信法印墓」から少し登ると「御幸の芝」と呼ばれる所ですが、その昔後醍醐天皇が吉野の行宮 (あんぐう)におられた頃、五月雨の降り続くある日の事、大勢の供を連れてこの辺りへ御幸されました。すると空模様がますます怪しくなり、傍らの観音堂に入ってしばらく休むうちに、次の歌を詠まれました。

 ここは丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空

  すると急に空が晴わたり、うららかな日和になったと吉野捨遺に載っています。なお、ここから上に辰之尾の家並みが続き、そこを過ぎると「上の千本」です。




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