吉野  その17

 宮滝の辺りの「吉野川」

 「桜木神社」から「喜佐谷川」に沿って下って来て 「喜佐谷川」が「吉野川」に流れ込む「夢の和田」が写真の左で白くなっています。また、青く澱んだ淵は昔河童がいた「夢が淵」です。吉野川の川面を上から見ると鯉や鮎が泳いでいるのが判りますが、ここ吉野川の鮎は桜を食べるので「桜鮎」と言われています。なお、万葉集で吉野川の流れは「たぎつ河内」「夢のわた」「川淀(かわよど)」等と詠まれ、柿本人麻呂が女帝の持統天皇の吉野行幸に供をして来た時の歌は、

 山川も 依りて仕ふる神ながら たぎつ河内に
  船出せすかも     万葉集、巻1−39
 宮滝の「柴橋(しばはし)」

 「喜佐谷川」が「吉野川」へと流れ込む直ぐ上流に架かっているのが古書にも記された「柴橋」で、昔はもう少し上流(写真で奧)の川幅が狭い所に架かり、旧東熊野街道上の橋で、当時は松の丸太を橋桁にしてその上に歩み板を張り、柴垣で欄干を造っていたので鉄橋に架け替えられた今でも「柴橋」と呼ばれます。また、昔は吉野川の水量も今よりは多く、万葉人達が「滝つ河内」で船遊びを行い、最高の避暑地でした。

 毎年(としのは)に かくも見てしか み吉野の
  清き河内のたぎつ白波  万葉集巻6−908
 「柴橋」から晩秋の上流を見る

 柴橋の上流には、左岸に甌穴(おうけつ)が数十個在り、笠置の布目川にも在るけど、吉野川では直径が約3m、深さ約6m、関西で最大です。なお、右岸に柱状の大岩が立ち、そこから飛び込むと二百文貰えた「二百岩」や、南無阿弥陀仏の六文字が刻まれている「名号岩」も在り、また、上流の橋が「宮滝大橋」、その上が「船張山」で、麓の辺りが万葉集で湯原王が詠んだ菜摘(なつみ)です。更に手前の左側で煙突の辺りが宮滝温泉、手前の右側も万葉集の三船山です。

 吉野なる 夏実(なつみ)の河の川淀に
 鴨ぞ鳴くなる山かげにして 巻3−375
 国の史跡「宮滝遺跡」と「吉野宮跡」

 「柴橋」を渡ると吉野町宮滝で、橋のたもとに石碑が建ち、中荘小学校の校庭が見え、校舎の裏に吉野川流域で最大の「宮滝遺跡」が在ります。ここから出土した縄文時代後期の土器にわざわざ「宮滝式」の名称が付けられ、また遺跡の北側から飛鳥時代以後〜平安時代初期の建物跡も発見され、656年女帝斉明天皇が「吉野宮」を造ると「日本書紀」に記された「吉野離宮」と推定され、「吉野」へ行幸した天皇は、応神天皇から聖武天皇まで8人で、その間約440年余、672年6月24日大海人皇子が近江朝打倒の為ここから出陣し、後で「吉野の盟約」を行い、また、女帝持統天皇は在位9年間に31回吉野へ行幸しました。
 吉野歴史資料館(TEL 07463-2-1349)

 国道169号線のバス停「宮滝(近鉄吉野線・上市駅までバスで約20分)」からちょっと西へ行くと、宮瀧・離宮蔵、手作り味噌と醤油の「梅谷醸造元」があります。頼んだら醤油製造のもろみ蔵を見せてもらえて、大きな吉野杉の8樽を上から覗ける見学コースがあります。そして「梅谷醸造元」さんの前から北へ入り、右へ上がって行くと、直ぐの所に焼き板で黒壁の「吉野歴史資料館」が建っています。「宮滝遺跡」から出土した縄文、弥生時代の土器や石器などをイラストや写真で解り安く解説し、また、「吉野離宮跡」に関する資料もあります。入館料200円。祝日以外の月曜日と、土・日を除く祝日の翌日が休館日です。
 浄見原(きよみがはら)神社

 バス停「宮滝」から東へ行って、「消防署」の建つ三叉路を右へ行くと「川上村」ですが、左へ向かうと国道370号のバス停「菜摘」を過ぎて、「国樔」で右へ曲がり、バス停「南国樔」から徒歩で「吉野川」の崖淵へ出ると、「浄見原神社」が鎮座しています。応神天皇が宮滝へ来られた時、国栖(くず)の人々が一夜酒を作り、歌舞を見せたのが「国栖奏」の始まりで、後にまた、「壬申の乱」で大海人皇子に味方した国栖の人が、一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供し歌舞を奏したら、皇子が喜び「国栖の翁よ」と云ったので、その舞を「翁舞」と云い、それから毎年旧正月14日天武天皇を祀り、ここで「国栖奏」が奉納されます。




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