飛鳥  その3−1
 都塚(みやこづか)古墳

 「石舞台古墳」から県道15号桜井明日香吉野線を東へ行き、冬野川(ふゆのがわ)の都橋を渡って南へ向かい、直ぐ左へ曲がって東へ行くと、直ぐ左(北)側に「都塚古墳」が小道に沿って口を開けています。元日の朝、ここで金の鳥が鳴くとかで、「金鳥(きんちょう)塚」とも呼ばれ、直径約10mの円墳です。横穴式石室に家形石棺を納めた代表的な後期古墳で、石棺は凝灰岩(ぎょうかいがん)の巨石をくり抜き、前後左右に縄掛突起(なわかけとっき)を作り付けた家形の蓋(ふた)の部分と、遺骸(いがい)を納める身の部分からなっています。かつて盗掘を受けているけど、発掘調査の結果、石室全体の形は明らかです。
 明日香村阪田の「坂田寺跡」

 「都塚古墳」から県道15号線へ戻って南へ向い、次の脇道を左へ入って行くと、「坂田金剛寺址」で、「坂田寺」は、587年(用命天皇2年)4月2日、天皇が疱瘡になった時、鞍部多須奈(司馬達等の子)が出家して修行に励み、天皇の病気平癒を祈願し、木で丈六の仏像と挟持の菩薩を造り、南淵に建立され、飛鳥時代には、大官大寺飛鳥寺川原寺豊浦寺と共に飛鳥五大寺の1つです。なお、ここからちょっと東へ行った広場には、柿本人麻呂の万葉歌碑が建ち、

 御食向(みけむか)ふ南淵山の巌には落りしは
 だれか消え残りたる        巻9ー1709

 現在、阪田の集落に建つ「金剛寺」

 また「日本書紀」に、606年(推古天皇14年)司馬一族の功績により、鞍作鳥が大仁(冠位十二階の第三位)の位を受け、近江国坂田郡に水田20町を与えられ、「此田を以って天皇の為に金剛寺を造る。これ今、南渕の坂田尼寺と云う」とあり、昭和48年、49年、55年、平成2年奈良国立文化財研究所の発掘調査によって、土師器、須恵器、手彫の軒平瓦、木簡6点、「坂田寺」と記された墨書土器等が出土し、奈良時代の仏堂と回廊が確認されたけど、飛鳥時代の主要な伽藍に関しては何も判らず。しかし、「坂田寺址」から東へ向って、阪田集落の方へ上がると、「坂田寺」の系統を引く浄土宗の「金剛寺」があります。



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