五條市  その5

 国の天然記念物「二見の大椋」

 「念仏寺」から「吉野川」を渡ってJR和歌山線と平行に走る国道24号線へ出て、五條市内の方(東)へ向かうと、バス停「JR大和二見駅」で、そこから少し南東へ入り、300m程行くと、こんもりとした森の様に見えるのが「二見の大ムク」、樹高21m、幹周り8.5m、推定樹齢1000年、開業医足立家(先祖は丹波の国、黒井城主の赤井尚直義の伯父で、1579年明智光秀に攻められ五條に落ちのびる)の屋敷内に植わり、白壁の土蔵に覆いかぶさる様に枝を広げ、室戸台風や伊勢湾台風で主幹が中程から折れて30m程あった樹高が今は少し低くなっていますが、それでも「五條の守り本尊」として崇められており。
 幻の「五新鉄道跡」の陸橋

 五條市二見からまた国道24号線へ出て、東へ行くと、国道上に陸橋(五新鉄道跡)が架かっています。県中西部に位置する五條は、江戸時代より、和歌山へ至る「紀州街道」と、熊野へ至る「十津川街道」が交差する宿場町として栄え、大正時代中頃、五條を起点に十津川沿いに線路を敷き、新宮までの「五新鉄道」構想が生まれ、昭和に入って建設が始まり、太平洋戦争を挟み、戦後も建設は続きました。しかし、モータリゼーションの波に負けて完現せず、結局、作りかけの線路用地の1部を「バス専用路」とし、市内にバスも走らないのに写真の様な立派な陸橋が24号線を跨いで残り、先端は吉野川の手前で切断されています。
 旧「五條代官所」の長屋門

 国道24号線と交叉している陸橋(五新鉄道跡)下4.1mをくぐって、更に東へ行くと、右(北)側の高台に「史跡公園」があり、1864年(元治元年)現在地に再建された「五條代官所」の長屋門が建っています。1795年(寛政7年)現在の市役所(ここから少し東)の地に創設された「五條代官所」は、大和の宇智郡・吉野郡と紀伊の伊都郡内の幕府領(天領)合わせて約8万石を支配したが、1863年(文久3年)8月17日夕、公家中山侍従忠光19歳を主将に、 吉村寅太郎、松本奎堂(けいどう)ら天誅組70人のゲーベル隊と和砲隊が表門から、槍隊が裏門から攻め込んで、代官鈴木ら5名を殺害しました。
 五條史跡公園の蒸気機関車

 なお、「史跡公園」北側に8620形78675号蒸気機関車(通称ハチロク)が置かれています。大正初期に兵庫の川崎車輌で製作された蒸気機関車です。同形で我が国初の国産1号機(8620形8620号は、現在東京の青梅公園に保存)から数えて616輌目に製造され、同形のラストナンバー88651号は687輌目で、大正14年に製造打ち切りになっています。動輪直径1.6m、最高速度は時速95キロ、主に中国山地の谷間で、姫路市から広島市までを結ぶ姫新線〜芸備線と、今もスイッチバックのある紀ノ川沿いの和歌山線を走り、昭和47年4月に秋田の五能線と長崎の唐津線に合わせて30輌残っていました。
 「赤根屋半七」の住居跡

 また、国道24号線へ出て、直ぐ右へ曲がり、細い道へ入って南へ行き、突き当たったら東へ向かうと、国道と平行に吉野川寄りの旧紀州街道で、今も古い家並みがそのまま残る「新町通り」です。関ヶ原の戦い後、五條二見藩主になった松倉重政が諸役を免除して商業の繁栄を計った城下町で、約1キロの通りに江戸時代の建物が多く残り、途中に「赤根屋半七」住居跡があります。1695年(元禄8年)大阪千日墓地での心中を題材にした「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」の主人公が三勝と半七で、浄瑠璃では、大阪上塩町の酒屋「茜屋」の半七が、実際は、吉野川の清流を利用して「晒木綿問屋」を営んでいました。
 日本最古の民家「栗山家」の屋根

 紀州徳川家の江戸参勤にも利用された紀州街道でもある「新町通り」は、江戸時代の宿場で、商家の風情を色濃く残し、昔の面影を偲ばせるしっとりとした街並みが続き、「新町通り」を東に出て、国道168号線と交叉する所で、鬼門除けに北西の角を欠いたのが県文化財「中家(なかけ)」です。昔庄屋をつとめた家で、主屋の鬼瓦に銘「宝永元年(1704年)」があり、また、国道168号線のバス停「戎神社」前、国の重要文化財「栗山家(くりやまけ)」は、棟札に慶長十二年(1607年)の銘があり、建築の年代が判っているものとしては我が国最古の民家と云われており、当時の豪商を現代に伝える貴重な建造物です。
 浄土宗「桜井寺(TEL 0747-22-3165)」

 また、国道24号線に出て東へ行くと「桜井寺」があります。942年(天慶5年)創建、本尊は阿弥陀如来、1428年(正長元年)兵火に遭いましたが、天誅組が五條代官所を襲って代官鈴木源内を殺害した後、志士30人が本陣としたお寺で、当寺を「五條御役所」と名乗って討幕の旗を上げ、更に十津川の郷士960人の来援を得て、高取城攻略に向かったが撃退され、大日川、広橋、栃原、下市口と吉野の各地で転戦するも追討軍は1万を超え、9月24日東吉野村で決死の切り込みを敢行し、遂に終焉しました。なお、境内庭園に代官鈴木源内の首を洗った手水鉢があり、また、境内の東、参道の角に芭蕉の句碑もあります。
 井上(いじょう)院跡の「乾十郎の墓」

 「桜井寺」からちょっと東へ行って、直ぐ左へ曲がり、北へ上がって、JR和歌山線の踏切を越えて暫く行った所に「井上院跡」があります。井上院は、真言宗のお寺で、古くは250mばかり南にあって、井上内親王が幽閉されていた屋敷跡と云われております。なお、今の井上院跡には、写真の様に「乾(いぬい)十郎」の墓があります。彼は五條の医者で、梅田雲浜に師事し、医者として五條在住の井澤宜庵(ぎあん)と供に天誅組に参加して、大阪の江口で捕らえられ、1864年(元治元年)7月20日京都六角の牢獄で処刑されました。享年37歳。その後、明治7年ここに小学校が開校されて、積善舎と呼ばれていました。
 国史跡「宇智川磨崖碑」

 「桜井寺」から国道24号線を東へ向かい、バス停「栄山寺口」から「宇智(うち)川」に架かる橋の少し上流に「宇智川磨崖碑」があります。昼でもなお暗い「宇智川」の左岸で、高さ10mの岩壁に彫られた大般涅槃経(だいはんねはんきょう)四句の偈(げ)が4行で刻み込まれ、その左に像高60cmの観音と思われる仏像が線彫され、微かに年号の「宝亀」と、「知識」の文字を読み取る事が出来、776年(宝亀7年)7月4日に彫られたものらしく、古くから知られ、奈良時代における仏教遺跡として極めて貴重な磨崖碑で、学術的価値が高いが、摩滅が酷(ひど)くて、部分的に往時の形を留めるが、殆ど判読不可能です。
 県史跡「浮田の杜伝承地」の「荒木神社」

 「栄山寺口」から国道24号線を西へ戻り、バス停「今井」の交差点を北へ入り、JR和歌山線の踏切を渡って200m行き、突き当たった所が「浮田の杜」です。古代の社叢で、名勝地として万葉集にも詠われ

 かくしてや なほや守らむ大荒木の浮田の杜の
 標(しめ)にあらなくに  巻11−2839

 延喜式内社「荒木神社」は、浮田の杜「荒木山」を背に、旧伊勢街道に面して鎮座し、天高御魂乃命(あめノたかみたまのみこと)十三世の孫、建荒木(たてあらき)命、荒木朝臣の祖天児屋根命を祀っています。
 高野山真言宗「大善寺(だいぜんじ)」

 「浮田の杜」を出て、北西へ向いそのまま直進して国道310号線に至って北進し、バス停「中之」の東に高野山真言宗嵯峨山釈迦院「大善寺」があります。山門はなく、小さな本堂と収蔵庫があり、寺伝では、母の井上(いのえ)内親王と供に五條へ幽閉されて、775年(宝亀6年)4月27日15歳の若さで毒殺された他戸(おさべ)親王の菩提を弔うために建立されたとか、第98代長慶天皇ゆかりの寺とも云われ、当寺には天正六年(1578年)の釈迦堂の棟札や、寛文十年(1670年)の棟札が残っています。また重文の本尊は、嵯峨清涼寺式「木造釈迦如来立像」、素地に切金文様を施して、像高168.1cmです。




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