宇陀市榛原から菟田野辺り  その2
 伊那佐山(標高637m)

 「高塚」から東へ行き、「芳野川」の「栗谷橋」を渡って、栗谷、石田の集落を通り、山路集落センター辺りから「伊那佐山(山路岳)」への登山道を北東へ上がり、途中から右へ曲がって健脚コースを登ると、中腹で吉野の連山が一望される所に「猿岩」があり、山頂からは遠くに大阪や橿原市内が望まれて、そこに「都賀那岐(つがなぎ)神社」が鎮座していますが、ここは神武東征の偵察陣地で、「日本書紀」神武天皇即位前紀戌午年11月7日条の「久米歌」で歌われ、

 盾並めて伊那佐の山の木の間ゆも い行き守らひ
 戦へば 我はや飢ぬ嶋つ鳥鵜飼が伴今助けに来ね
 伊那佐山の中腹にある「猿岩」

 上記の「久米歌」は、「盾を並べて伊那佐山の木の間より敵を見張りながら戦ったので我らは飢えている嶋つ鳥(鵜にかかる枕詞)鵜飼が伴(奈良県五條市の東部、吉野川沿いの東阿太、西阿太、南阿太で鵜飼をする民)今すぐ助けに来い」と歌っていますが、要は連戦連勝の皇軍も「腹が減っては戦が出来ぬ」と云うことです。なお、「久米の子」は久米直(あたい)が率いた大和朝廷の軍事集団で、天孫降臨の時、日向の高千穂の峰に下った天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほノににぎノみこと)の従者、天津久米命が先祖です。また、古代歌謡の1つ「久米歌」は、古事記、日本書紀の神武天皇の条に由来する歌で、「久米舞」をともなって歌われましたが、今は舞のみが残っています。
 伊那佐山山頂の「都賀那岐神社」

 神武天皇即位前紀戌午年11月7日磯城彦(奈良県磯城郡にいた兄弟)攻めは、特に兄磯城(えしき)が墨坂で真っ赤に燃えた炭を置いて抵抗した時、宇陀川の水を汲んで炭火を消して討ち果たし、従順な弟磯城(おとしき)は八咫烏が「天神(あまつかみ)の子、神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこノすめらみこと、神武天皇)が汝を召したまふ、カァ、カァ」と鳴いたら畏怖恐懼(いふきょうく)し、「臣(やつがれ、自分は)天圧神(あまノおすかみ、神武天皇)が来られると聞いて、朝夕恐れかしこんでおりました」と云って、葉盤(ひらで、木の葉で編んだ平たい皿)8枚を作り、食(をしもの)を盛って差出しました。




奈良観光表紙に戻る  宇陀市榛原から菟田野辺りの図  前のページに戻る  次のページに進む