伊賀上野  その2
 市指定重文「俳聖殿(はいせいでん)」

 「伊賀流忍者博物館」の直ぐ西隣が、下層八角形の「俳聖殿」です。地元出身代議士の川崎克氏が、俳聖松尾芭蕉生誕300年を記念して、昭和17年私財を投じて建てられました。なお、ユニークな形の建物は「奥の細道」を歩き、生涯旅をした芭蕉の姿を模し、二階の正面に掲げられている木の額が芭蕉の顔をアレンジし、檜皮葺の丸い屋根は旅笠、八角形の庇(ひさし)が袈裟(けさ)、それを支える柱は行脚する時に用いていた杖(つえ)と芭蕉の脚に見立てられ、なおまた、「俳聖殿」内には伊賀市指定文化財で、伊賀焼等身大の松尾芭蕉像が安置されていますが、毎年彼の命日である10月12日「芭蕉忌」に開扉されます。
 伊賀上野城(TEL 0595-21-3148)

 「俳聖殿」から更に西へ向うと、三層白亜の「伊賀上野城」です。昔、上野盆地の北側に聳える丘の上に「平楽」と云う伽藍があったが、1581年(天正9年)織田信長の「伊賀の乱」で焼かれて、1585年(天正13年)筒井定次が大和郡山より伊賀に移って築城したのが始りで、1608年(慶長13年)彼が失政を理由に改易となった後、大阪方に備え、築城名人藤堂和泉守高虎が城郭を拡張し、西側に日本一高い石垣を築き、また、町屋を南へ移し、完全武装の城下町を造ったけど、1612年(慶長17年)9月2日竣工直前の天守閣が暴風雨で倒壊し、その後、大阪夏の陣で豊臣方が敗れ、城の必要性がなくなりました。
 上野城内掘「日本一の高石垣」

 なお、城は津の支城で、1615年(元和元年)武家諸法度による城普請の禁止により、再び建てられる事はなく、1640年(寛永17年)から城代家老の藤堂采女(服部半蔵の甥)が預り、明治維新を迎え、そして、昭和10年川崎克代議士が私財を投じ、3年の歳月をかけ、往時の基台に桃山建築の粋を集めて、三層三重総丈76尺(23m)を模擬復興され、我が国で最後の木造天守閣です。碧緑の上に見える城郭の美観は、あたかも鳳凰が翼を休めた安らぎを思わせるので、雅名を「白鳳城」と呼ばれ、高虎が自ら縄張りをした濠は深く、築かれた石垣は高さ31mで日本一高く、梯郭式の堅固な城は昔五層の大天守閣でした。



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