金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その1

 「五軒屋敷堀」と「追手東隅櫓」

 近鉄橿原線の「郡山駅」で下りると、駅前にお城の様な形の交番が建ち、城下町マップを置いています。更に、電車の線路に沿って北へ向うと、バス通りの東側が大和郡山市役所で、金魚を展示している玄関を入って、2階の220番の窓口が大和郡山市商工観光課(TEL 0743-53-1151)です。カラー刷りの観光パンフレットを置いています。バス道路に出て、県立城内高等学校への看板の所、20数体のお地蔵さんを祀っている小堂の角を曲がり、近鉄九条第10号踏切を渡ると、左側に県史跡「郡山城跡案内図」が建っていて、右(北)を見ると、お堀(五軒屋敷堀)の前方に、木の間隠れに法印廓の「追手東隅櫓」が見えています。
 郡山城の「追手(おおて)向櫓」

 踏切から直ぐの「鉄(くろがね)御門趾」に入り、左の郡山高校を見ながら、真っ直ぐ行って「陣甫廓」を進むと、内堀の先が「毘沙門曲輪追手向櫓」です。郡山城は、犬伏岡(いぬふせノおか)の東端にあり、1580年(天正8年)筒井順慶が織田信長から与えられ、廃城の多聞城から石を運び天守閣を急造したが36歳で没し、子の定次が伊賀へ転封の後、1585年(天正13年)9月秀吉の異父弟豊臣秀長が入城して、百十四万石の禄に相応しい城を目指して普請し、秀長亡き後、1595年(文禄4年)4月養子の秀保が十津川で保養中に家臣の犠牲で横死して、後に増田長盛が20万石で入城し、外堀と土居を築きました。
 「追手門(大手門、梅林門)」

 犬伏城冠山城(かんざんじょう)とも云った郡山城は、1600年(慶長5年)9月増田長盛が関ヶ原の合戦で西軍に味方したので、取り壊して伏見城に運ばれ、大久保長安の城番・筒井定慶の時、1615年(元和元年)4月26日大阪夏の陣で、大阪方の大野主馬に攻められて定慶が逃げ出し、戦い済んで、7月19日譜代大名水野勝成が三州刈屋から6万石で入城したが、城内が田畑で、勝成はしばらく洞泉寺に仮住まいし、後に三の丸に仮宅を構える程度でした。その後、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平と城主が代り、1724年(享保9年)8月13日甲斐から柳沢吉里(よしさと)が15万石で入城しています。




奈良観光表紙に戻る  大和郡山周辺図を開く  前のページに戻る   次のページに進む