斑鳩 (その1)

法輪寺 (TEL 0745−75−2686)

 法輪寺の「南門」と「三重塔」

 JR大和路線「法隆寺駅」から「近鉄郡山駅行」のバスに乗車し、バス停「法起寺前」で下車、バス道路を200mもどって途中から右折し、西へ約400m行くと、右手(北側)前方のこんもりとした森の中に三重塔の先端が見え、聖徳宗妙見山「法輪寺」です。なお、JR法隆寺駅から真っ直ぐ北へ歩けば約35分です。「法輪寺」は、622年(推古天皇30年)山背大兄王(やましろノおおえノおう)が、父聖徳太子の病気平癒を祈って、由義(ゆぎ)王らと建立したと云う説と、670年(天智天皇9年)斑鳩寺が炎上の後に、百済の開法師、円明法師、下氷新物(しもひノにいも)らが共同で建立したと云う2説が有ります。
  法輪寺の「三重塔」

 「法輪寺」は、法林寺、法淋寺とも書かれ、また、所在地の地名から三井寺(みいでら、御井寺)とも呼び、伽藍の配置は法隆寺と同じ形式で、規模はその三分の二ですが、出土瓦が法隆寺より古く、創建は法隆寺よりも古い様です。なお、「南門」左脇に建つ「下馬石」は、1587年(天正15年)豊臣秀吉が祈願寺とした時の物で、「南門」を入ると、左手に斑鳩三塔の1つ「三重塔」、正面に鉄筋コンクリートの「講堂」、右手に「金堂」が建ち並び、また、「三重塔」は、昭和19年7月21日落雷で炎上したけど、昭和50年作家の故幸田文さんや信徒多数の尽力で、31年ぶりに元の基壇上に縁を巡らさず、飛鳥様式そのままに再建され、総高23.8m、円柱は、エンタシスで、組物は法隆寺式(飛鳥様式)の雲肘木で中備を置かず、屋根は本瓦葺、相輪は復古調の堂々たる物で、内部に八角の心柱が通り、四天柱を設けた間が須弥壇で、正面の厨子の中に仏舎利が安置され、今でもお天気の良い日に扉を開けると檜の香りが漂うそうです。
 法輪寺の「金堂」

 「三重塔」の前を真っ直ぐ進むと、右手に江戸時代に建てられた「金堂」が建ち、本尊は重文の「薬師如来坐像」で、楠材の一木彫、高さ1.121m、飛鳥時代後期の作と推定され、法隆寺金堂の「釈迦如来」に似ていますが、現在は「講堂」に安置され、なお、「講堂」の本尊は重文の「十一面観音立像」、杉材の一木彫、像高3.63m、平安時代初期(貞観年代)の大作です。また、「講堂」内に、いずれも重文で、高さ1.755mの「木造虚空蔵菩薩立像」や、高さ1.709mの「木造吉祥天立像」、高さ1.503mの「木造地蔵菩薩立像」、「木造聖観音立像」が並び、重文「鴟尾残闕(しびざんけつ)」もあります。


三井

 国史跡「三井(みい)」

 「法輪寺」の西側の駐車場の横を通って、北へ入ると、三井集落に井戸が在り、聖徳太子が我が子の産湯の為に掘られたと伝えられる古井戸の1つで、この辺りの所在地の名称「三井」や法輪寺の別名である「三井寺」の由来の元にもなった3つ(東・前裁・赤染)の井戸の1つ、「赤染井(あかぞめい)」です。 かっては、ここら辺りも「法輪寺」の境内で、井戸の深さは約4.24m、口径0.9m、中ぶくれの筒状になっており、底部にロの字形に4個の石を組合せて、側壁は底部から約1mの高さまで乱石積み、その上方約3mの部分は扇形の瓦の磚(せん)を積んでおり、すき間からは、現在も水が湧き出て溜まっています。
 斑鳩溜池(いかるがためいけ)

 史跡「三井」から北へ行くと、集落の外れに「斑鳩溜池」があります。昔からあった濁池、新池、五ヶ村池を整備拡充して造り、堤長180m、堤高10m、受益面積110.5ha、奈良県の四大溜池(白川溜池倉橋溜池高山溜池と共に)の1つで、矢田丘陵の麓にある山池ですが、甲子園にも出場した斑鳩高校セーリングが、海の無い奈良県下でマリンスポーツ、それもヨットの練習をここでして話題を呼びました。なお、池の西側に小さな「三本松池」もあり、北側に「法隆寺カントリー倶楽部」があり、更に北へ行くと「県立矢田自然公園」で、「矢田山遊びの森」などがあり、また、近くには小さな溜池が無数にあります。
 国史跡「三井(みい)瓦窯跡」

 「法輪寺」から東へ行って、「法起寺」の少し手前「県道9号奈良大和郡山斑鳩線」に出くわしてから、左へ折れて北へ向かうと、左側の「瓦塚池」を過ぎた右側の丘陵西側傾斜面に「三井瓦窯跡」があります。昭和6年果樹園開墾中に偶然発見されて、瓦窯跡は、天井部のアーチの残存状態が良く、約40度の勾配をもつ登窯で、窯内から平瓦と丸瓦が出土し、これと同類の瓦が法隆寺や法輪寺から出土しているので、飛鳥後期(白鳳期)から奈良時代前期の瓦釜跡と考えられています。また、瓦窯跡の後方が斑鳩地方で最大級の「瓦塚古墳」で、墳丘上下2段に葺石と埴輪列を持つ全長97mの前方後円墳や円墳などが3基あります。


法起寺 (TEL 0745−75−5559)

 法起寺の「南門」と「三重塔」

 聖徳宗・岡本山「法起寺(ほうきじ)」へは、JR大和路線・法隆寺駅から「近鉄郡山」行のバスに乗車し、バス停「法起寺前」で下車するか、JR法隆寺駅から真っ直ぐ北へ向い、途中「中宮寺」、「法輪寺」等を見てから廻られると良いと思います。また、JR法隆寺駅から「法起寺」まで3キロ足らず、徒歩45分ですが、北東の富雄川沿いにある「上宮遺跡公園」等を見て、先に「法起寺」を廻り、後で「法輪寺」、「中宮寺」、そして「法隆寺」へ廻るのも良いです。なお、境内が国史跡で、写真は「南門」と「三重塔」ですが、 拝観料300円を払って入るのはこちらでなく、立派な「西門」が在り、そちらから入ります。
 法起寺の国宝「三重塔」

 「法起寺」は、所在地の地名に因んで「岡本寺」、また、「池後尼寺(いけじりにじ)」とも呼ばれて、638年(欽明天皇10年)聖徳太子の遺命により、山背大兄王(やましろノおおえノおう)が自分が住んでいた岡本宮を尼寺にして「金堂」を建立し、685年(天武天皇14年)から宝塔を建て初め、飛鳥時代の建築様式を今に伝える「三重塔」は、706年(慶雲3年)に建立され、露盤を上げた事が鎌倉時代に書かれた「太子伝私記」の露盤銘にあり、三重塔として建立年代がはっきりした我が国最古の三重塔です。伽藍の配置は「法起寺式」で、塔が東に、金堂が西に配され、法隆寺と逆になっているが、三重塔は飛鳥様式の古式に則り、一重基壇上に建ち、高さ23.90m、エンタシスの円柱や雲斗肘木(くもとひじき)、卍くずしの高欄、深くて勾配のゆるやかな屋根が法隆寺の五重塔の一・三・五層と同一寸法で、初層の内部は中心に心柱が入り、廻りに四天柱が建ち、その間を須弥壇(しゅみだん)にし、天井は組入になっています。
 法起寺の「聖天堂」

 法起寺の「金堂」は、創立時の638年(欽明天皇10年)福亮(ふくりょう)僧正が建立し、弥勒像を1体作って安置しました。また、684年(天武天皇13年)恵施(えせ)僧正によって建設が始められた 「三重塔」は22年目に完成して、1262年(弘長 2年)大修理が行われ、その後、「三重塔」をのぞく堂舎が火災に合ったが、江戸時代になって再建され、現在に至っています。なお、安置されている仏像は、平安時代の初期に作られ、下半身に木目が現れているけど、上半身に黒漆が塗られその上更に金箔が残っている国重文の木造十一面観音立像で、立木仏としては素朴な像が多い中、実に丹念に仕上げられています。




奈良観光表紙に戻る  斑鳩の里案内図へ  前のページへ  次のページへ