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法隆寺三地蔵の1つ「椿地蔵」 中宮寺から夢殿の西門を出て、北に向い、次の辻を右(東)へ折れて、中宮寺の北へ出ると、喫茶・ミニギャラリー・工房などの集まった創作市場「夢違(ゆめたがい)」があり、そこの塀を東側から廻って北へ出ると、斑鳩三地蔵の1つ「椿地蔵(延命地蔵、鎌倉時代)」が建っています。と云っても通常のお地蔵さんでなく、梵字を彫った「種子板碑」の様で、その周りに近所から集められた小さなお地蔵さんが10体ばかりあります。なお、「椿地蔵」はその昔、旅人が病に倒れ、この地蔵の祀られていた祠(ほこら)で身体を休めていると、夢枕にお地蔵さんが現れ、「椿の花を食しなさい」とのお告げがあったので、お告げ通りに椿の花を食したところ、見る見る病が平癒して、また旅を続けることができました。以来、椿地蔵として人々に親しまれています。また、ここから東側の道を北上して、「片野池」の角を左(西)へ向かって上がると、右(北)手に「極楽寺の墓地」があり、その南西の角の祠の中に「継子地蔵」が祀られ、これも斑鳩三地蔵の1つです。 |
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光明山「極楽寺墓地」の釣鐘 なお、現在「極楽寺」はありませんが、開山は「行基」で、彼がお墓作りに貢献されて(其の碑も、元火葬場跡地に塔が残っています)当時五ヶ大字で、後に十六ヶ大字に成り、お墓も多くできて、郷中(大字)墓と成り、極楽寺共同墓地と名付けられました。また、お寺は昔、五町一反の広大な寺領を有し、中に千日堂があり、そこで終日修行僧が荒行を行っていましたが、昭和中期に火災の為、仏像、古書が灰になり、今は「釣鐘」のみが元の釣鐘堂が建っていた辺りに吊り下がっています。昭和40年頃迄は、郷中の人が亡くなられて葬列の先頭が無情橋(東100mにあった)にさしかかると、大人は6回、子供が3回鳴らされ、葬列が光明山「極楽寺」に立ち入る事を各位御先祖様へ知らせていました。また、一節墓地の中央(頂上)に「御通夜塚」があり、葬列が無事「御通夜塚」に着いた事を郷中の人に知らせる鐘も鳴らされたそうです。なお、「御通夜塚」は野焼時代の火葬場で、現在少し小さくなっているが、「鏡塚」と共に残っています。 |
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旧村社「斑鳩(いかるが)神社」 「法隆寺」の北東、「天満池」の東側、「天満山」に鎮座し、俗に「天満さん」と呼ばれる「斑鳩神社」は「古今一陽集」に「法隆寺鎮守四社の随一」で、天慶年中(940年頃)に菅原氏の苗裔甚照が菅原道真を祀って創祀、1324年(元亨4年)僧慶祐が社殿を造営したと記され、「法隆寺」鬼門の守護神で、今も「法隆寺」と関係が深いようです。なお、元は天満山西麓に鎮座し、境内に「如法経堂」と称する堂一宇がありましたが、1660年代(寛文年中)焼失して、1668年(寛文8年)神殿を再建、1725年(享保10年)水害に遭い、現在の山上に移転しました。山添村室津の「薬音寺」にある鰐口は元当社のです。 |
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斑鳩の「仏塚古墳」 「法隆寺」の北に在る「天満池」と「斑鳩神社」の間の緩やかな山道を登って、「松尾寺」へ行く途中、田圃の中に写真の様なこんもりとした「仏塚(ほとけづか)古墳」があります。一辺23mの「方墳」で、高さ4.6m、花崗岩の自然石を積んだ両袖式の横穴式石室です。縄文時代から室町時代の遺物が出土し、副葬品として須恵器の土器、馬具、耳環(じかん、イヤリング)等が有りました。また、貴重な遺物として、 高さ9.5cmの金銅仏や塑像仏の破片、花瓶や六器 (ろっき)等の仏教に関する仏具も出土しましたが、これらは中世になってからの物で、当時「聖」と呼 ばれる僧が石室を仏堂として利用していた名残です。 |