斑鳩  (その3)

吉田寺  (TEL 0745−74−2651)
 吉田寺(TEL 0745-74-2651)

 「龍田神社」から南へ出て、国道25号線を渡り、更に南へ300m行くと、道の左(東)側で奥まった所に浄土宗清水山「吉田寺(きちでんじ)」があります。斑鳩町小吉田(こよしだ)集落の北に位置し、俗に「ぽっくり往生の寺」「ぽっくり寺」と呼ばれ、腰巻祈祷で知られ、創建は、大化改新を成し遂げられた第38代天智天皇の勅願で、天皇の同母妹・間人皇女(はしひとノひめみこ、孝徳天皇皇后)の陵寺でしたが、987年(永延元年)恵心僧都(えしんそうず)源信が別に堂を建立し、本堂西側に間人皇女の殯の宮跡「清水(しみず)御陵」が在り、鬱蒼(うつそう)と木々が生い茂った中に無名の石碑が建っています。
 「吉田寺」の国重文「多宝塔」

 なお、少し余談ですが、大化改新を成し遂げた中大兄皇子が直ぐ天皇にならず、なぜ23年間も皇太子のままでいたか、それは同母妹で伯父の孝徳天皇の皇后間人(はしびと)内親王と男女の仲で、難波から飛鳥へ遷都の時も皇后は高齢の天皇を難波に残し、兄と飛鳥へ移り、中大兄皇子が天智天皇になったのは、孝徳天皇が難波で崩御した4年後に間人皇后が亡くなってからです。余談はさて置き、「吉田寺」の「多宝塔」は、本堂の直ぐ斜め前、東側に建ち、方3間、2層、本瓦葺、高さ40尺(約12m)、遠くからでもこんもりとした森の中に塔の先端が見え、国重文の多宝塔としては大和路で数少ない貴重な多宝塔です。創立は心柱の銘により、1463年(寛正4年)6月13日俗別当立野信賀大勧進衆の建立で、内部に恵心僧都が父ト部正親の菩提追善の為と伝える秘仏「大日如来坐像」が安置され、毎年9月1日〜2日と、11月1日〜3日に開扉されます。また、境内に腰付き「鐘楼」も在り、石仏「慈母観音像」なども祀られています。
 多くの木魚が並ぶ「吉田寺」の本堂

 本尊は、丈六(約4.85m)国重文「阿弥陀如来坐像」です。987年(永延元年)恵心(源信)僧都が境内の栗の木から彫った県下一の阿弥陀仏で、千体仏光背を背負って上品上生印を結ぶ端正無比の霊仏、金色に輝く尊像の前で念仏を称え、祈祷を受けた肌着(衣服)を身に付けると、長く病み患うこと無く、腰シモ、スソの世話にも掛からず、病み苦しみも無く、安らかな往生が叶い、霊験真にあらたかとか。なお、当寺が「ポックリ寺」になったのは、孝心の厚かった恵心僧都が母の臨終に際し、除魔の祈祷をした衣服を母に着させた所、何の苦しみも無く、母が称名念仏の中に安楽往生の素懐をとげられた故事に由来します。
 鹿塚(しかづか)

 「吉田寺」からまた国道25号線へ出て西へ向い、バス停「斑鳩交番前」を北へ入り、旧道を左に折れて西へ向い、アーケードをくぐって龍田三丁目3と4の間を右に入って北へ行き、お寺の様な北六番町自治会集会所の四つ角を左に曲がって西へ少し下ると、道の左(南)側に「鹿塚」があります。その昔、聖徳太子が多くの家臣とこの辺りを通った時、家臣の飼い犬が鹿と喧嘩をして、犬が鹿の足に噛み付き、それを見た太子が鹿の手当てをして逃がしましたが、数日後、また犬が鹿を噛み殺したので、太子がこの事を深くお考えになり、これは前世の宿業によるもので、恨みの恐ろしさを悟り、それを忘れない様に鹿塚を造りました。
 龍田北の「春日神社」

 また、お寺の様な北六番町自治会集会所の四つ角に戻って、左に折れて北へ向うと、矢田丘陵の山際で、斑鳩町龍田北、北庄(きたのしょう)集落の北西部に「春日神社」が鎮座しています。本殿三社と小社が、建っていて、中央社殿の棟木には室町時代中期、宝徳二年(1450年)の墨書があり、祭神として、須佐男之命、猿太彦、八大童子、月読之命、土坂之命を祀り、春日講(十人衆)がお守りしていますが、当神社の宮元座は、昔は板土(いたど)座と云い、法隆寺や龍田神社に猿樂を奉納し、金剛座とも云って、ここが金剛能発祥の地であると云われ、また、龍田神社の例祭には、毎年古式の通りにご膳をお供えしています。




奈良観光表紙に戻る  斑鳩の里案内図へ  前のページに戻る  次の順路(龍田川と三室山)へ