河合町から、かぐや姫の里・広陵町へ  その3

 黄檗宗(おうばくしゅう)「長林寺」

 「大塚山古墳」の西に道路を夾んで、一辺30mの方墳「九僧塚(くそうづか)古墳」があり、そこから南西に500m行くと、穴闇(なぐら)の集落の中に「長林寺(ちょうりんじ)」があります。聖徳太子が創建された46伽藍の1つで、境内に塔の心礎があるけど、元のお寺は南にあって、今のお寺は後に移され江戸時代中期に建立されたものです。なお、直ぐ側の「素盞鳴(すさのお)神社」の境内にも金堂の跡があって、大門と云う小字名も残っています。また、発掘調査により、元の寺域は東西1町、南北1町以上で、金堂の東側に塔をおく法起寺式が確認され、出土した瓦は、飛鳥時代から室町時代にかけてのものでした。
 真言宗・満嶋山の名刹「大福寺」

 「長林寺」の南西300mに近鉄田原本線の池部駅があり、線路に沿って東へ行った次の「箸尾駅」から南へ500mほど行った所に「大福寺」があります。聖徳太子創建46伽藍の1つで、後に弘法大師入唐のみぎり、祈祷に参籠され、ついで鎌倉時代1224年(貞応三年)梵鐘の再興が行われ、1284年(弘安7年)天河の弁財天を勧請して堂塔を整備し、この頃寺運いよいよ隆盛でしたが、1467年(応仁元年)以降は度々兵火に罹り、堂舎はもちろん多くの古記録等も焼失しました。けれど、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の時、家康が戦勝を期して、大福寺へ朱印三十石を拝領、その後徳川氏代々の知遇を得ました。
 大福寺の境内社「天満宮」

 江戸時代の「大福寺」は、東寺と西寺の二寺地に分かれていましたが、今のお寺は西寺が残ったもので、元の東寺付近より多数の泥塔が出土し、聖徳太子母公菩提のため八万四千塔を納めたものと伝えられます。なお、本堂の本尊は、「薬師如来坐像」で、脇侍には藤原時代の「不動明王立像」や、室町時代の長谷寺型「十一面観音立像」及び「雨宝童子難陀龍王」を安置し、東寺の阿弥陀堂本尊であった「阿弥陀如来坐像」等を奉祀して、後壁の「両界曼陀羅」は、室町時代の初期の秀作と云われ、また、「太子堂」には等身大の弘法大師坐像を祀り、「天満宮(弁財天社)」に満嶋弁財天を祀り、白山権現天満天神も合祀しています。




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