河合町から、かぐや姫の里・広陵町へ  その5

 国史跡「佐味田ナガレ山古墳」

 「馬見丘陵公園」にある古墳で最も人気が高いのが「中央エリア」の南西にあって、昭和51年に国指定史跡の「佐味田ナガレ山古墳」で、南向き二段築造の前方後円墳です。全長105m、後円部直径64m、前方部幅70mで、5世紀前半頃の築造と推定されています。昭和50年、奈良県教育委員会が調査された結果、前方部の埋葬施設は木棺を粘土で覆った粘土槨(ねんどかく)で、墳丘の裾部に埴輪を巡らしている事が判りました。埴輪列は10cm間隔に円筒埴輪を建て、10〜20本毎に大型の埴輪を配置しており、遺存状況も良かったので、東側は葺石と埴輪列を復元整備して、約1600年前の姿に再現されています。
 国史跡「牧野(ばくや)古墳」

 「馬見丘陵公園」から東西に延びる道路を渡らずに西へ約1.2キロ行くと、近鉄「五位堂駅」から北上して来た「かつらぎの道」と交差する所に「牧野史跡公園」があり、直径約55mの大型円墳「牧野古墳」で、丘陵の南斜面に三段で築かれ、二段目に横穴式の石室を持ち、玄室の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道の長さ10.4m、幅1.8m、全長17.1mの大型石室です。玄室に「くりぬき式」と「組合せ式」の家形石棺が安置され、石室内は盗掘されていたけど、金銅装の馬具、武器、装飾具、土器等の副葬品が多数残っていて、被葬者は敏達天皇の皇子押坂彦人大兄王(舒明天皇の父)と云われています。
 かぐや姫の生まれた「竹取公園」

 「馬見丘陵公園」の南西、隣が「竹取公園」です。「今は昔、竹取ノ翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事につかひけり。名をば讃岐ノ造(みやつこ)となむいひける」これは「竹取物語」の始めに書かれている文章です。「お伽噺」や「伝承」に現れる「かぐや姫」のお話は、天をつく青竹の群生と、その上に輝く満月のある所で、その様な所は全国に沢山あります。しかし、平安時代の初期に書かれた「竹取物語」の舞台のモデルになった所は、後で説明する「讃岐神社」が鎮座する奈良県北葛城郡広陵町です。なお、「竹取公園」の北側には、1家族4〜5人の竪穴式住居や、高床式倉庫等があります。
 特別史跡「巣山(すやま)古墳」

 「竹取公園」の隣、道路を夾み東側に馬見古墳群で最大の「巣山古墳」があります。水を満々と湛えた周濠と外堤を持ち、全長220m、前方部幅112m、高さ17m、後円部径130m、高さ19mの前方後円墳です。3段に築成されて、竪穴式石室が後円部に2基、前方部に1基あり、墳丘に葺石、円筒埴輪を並べ、勾玉、鏡、石製品等が出土し、くびれ部の造り出に形象埴輪が並び、古墳時代前期末または中期初頭の築造と推定し、4世紀末の大王墓と考えられ、明治時代に盗掘されて、残りの遺物を宮内庁が保管し、一部は広陵町中央公民館で展示しています。なお、壕に大蛇が棲み、墳丘の木を切ると、青い血が出るそうです。




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