河合町から、かぐや姫の里・広陵町へ  その8

 真言宗「百済寺(くだらじ)」

 「八坂神社」から南へ行き、広い道路へ出たら左へ曲がり、そのまま東へ進み、葛城川の支流「土庫川」と「葛城川」を渡って、更に東へ700m行ってから南へ曲がって真っ直ぐ行くと「百済寺」があります。「日本書紀」で第34代舒明(じょめい)天皇11年(639年)12月の条に「是(こ)の月百済川の側(ほとり)に九重塔(ここノこしろノとう)を建つ」とあり、聖徳太子が平群郡熊疑(くまごり)に建てた熊疑精舎をこの地に移し、百済大寺と名付たと云われています。その後、火災にあったが、天武天皇の母で女帝第35代皇極(こうぎょく)天皇の時に再建し、674年(天武2年)第38代天武天皇の時に至って
 「百済大寺」の国重文「三重塔」

 伽藍が飛鳥の高市(たけち)郡に移り「高市大寺」と称し、更に676年「大官大寺」になり、平安遷都で平城京へ移って、現在の「大安寺」になりました。なお、百済大寺の所在地に関して諸説あり、なかでも飛鳥の北、香具山麓説が有力ですが、当地の百済説も根強く、両説とも有力な遺構が発見されていないので決め手に欠け、はっきりした事は判っておりません。また、現在の百済寺は、江戸時代の初期、1675年(延宝3年)大修復をされましたが、その後再び荒廃し、昔の面影を伝えるものは、鎌倉時代中期の建立と考えられている方三間、本瓦葺の「三重塔」だけで、昭和6年修復時に「寛政四年(1463年)」の銘をもつ瓦が発見され、なお、広陵町百済に小門(しょうもん)、経蔵(きょうぞう)、瓦田(かわらだ)等の小字が残っています。本堂は、大職冠(たいしょくかん)と呼ばれ、方三間単層、入母屋造、内陣に本尊「毘沙門天像」を安置しています。また、「三重塔」は、明治39年に国の重要文化財に指定されました。
 新山(しんやま)古墳

 「百済寺」から又西へ行って、「葛城川」を渡り、更に西へ行って「高田川」に至ったら川に沿って南へ向かうと、中和幹線とバス道路が交差する南西の角に「新山古墳」があります。馬見丘陵の南端東麓の自然丘陵を利用して築造された前方後円墳で、周囲に濠を巡らし、今は溜池として利用され、わずかに東と北に当初の面影を残し、前方部を南南西に向けて、全長約137m、前方部幅約66m、後円部の幅約64m、後方部頂上までの高さが約10mです。明治18年、後円部に竪穴式石室と組合式石棺状の施設が発見され三角縁神獣鏡、小形内行花文鏡、車輪石、石釧、中国晋代の帯金具、直弧文鏡、玉類等が出土しています。
注:百済寺の三重塔の写真の上にマウスを乗せると、仏像の写真が現れます。
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