山の辺の道  その18

 西殿塚古墳(衾田稜)

 「五社神社」から「山の辺の道」を南へ行くと、直ぐ「中山廃寺」ですが、また「山の辺の道」を外れ、山の方(東)へ向うと、こんもりとした森が第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかひめみこ、第29代欽明天皇の母)の「衾田(ふすまだ)稜」で、宮内庁が管理し、大和(おおやまと)古墳群の中では最大、全長234mの前方後円墳です。前方部が撥形(ばちがた)に開き、古墳周囲の発掘調査で、葺石が出土し、埴輪成立以前の特殊器台(複雑な文様をもつ壺をのせる円筒形の土器)や特殊円筒型埴輪が出土して、6世紀前半の皇后陵でなく、3世紀後半、古墳時代初期の巨大古墳で、「邪馬台国」の女王・卑弥呼に続く台代(とよ)の墓ではないかと云われています。
 灯籠山古墳の「六地蔵」

 なお、西殿塚古墳(衾田稜)の東にも大和古墳群の1つ「東殿塚古墳」、全長185mがあり、最古の形式の埴輪が出土していますが、また、「衾田稜」の前から「山の辺の道」へ戻ると、「行基大菩薩」の大きな石碑も建っている墓地に出て、「六地蔵」が立っています。「六地蔵」は六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の各道におられ、衆生の苦悩を救済する檀陀、宝珠、宝印、持地、除盖障、日光菩薩の6種のお地蔵さんの事で、大和路ではあちらこちらで良く見かけます。なお、ここの墓地も大和古墳群の1つ「燈籠山古墳」で、東を高くした山側に後円部を置き、全長110mの主軸を東西に取った前方後円墳です。
 念仏寺(TEL 0743-66-1127)

 「灯籠山古墳」の角を右に曲がると、本堂の屋根と鐘楼、十三重石塔がコンクリートの塀越しに見える浄土宗・大塚山宝性(ほうしょう)院「念仏寺」です。開基は行基で、今は廃寺の真言宗「旧中山寺」の一坊と伝えられ、本尊は焼け残りの弥陀、「阿弥陀如来立像」で、室町時代の1498年(明応7年)に地震で炎上し、その後、十市城主の十市遠忠が、1550年(天文19年)に再興したけど、1709年(宝永6年)再び焼失して、同年沢公が再建し、背後の燈籠山(とうろうやま)古墳の前方部にある墓地は、当寺の所有で、高さ2mの五輪塔は坂上田村麿の墓で、南北朝の貞和5年(1349年)の地蔵石仏もあります。
 大和古墳群の「中山大塚古墳」

 天理市中山町の「念仏寺」の山門の前が三叉路で、西へ行くと国道169号線のバス停「中山」ですが、南へ行くと、「山の辺の道」の直ぐ左(東)側のこんもりとした丘が全長約132mの前方後円墳「中山大塚古墳」です。後円部をやや北東向きに置き、「山の辺の道」に沿って南北に築かれ、後円部直径73m、高さ10mで、アーチ型天井の竪穴式石室をもち、縁を取り巻く周濠は確認されていないが、木立と土で覆われた墳丘裾に葺石を他で例を見ない急角度で積み、年代を知る事が出来る衾田稜と同じ特殊器台も出土しています。また、前方部(写真の右外)に大和神社のお旅所が鎮座し、墳丘の頂上へは東側から登れます。
 ちゃんちゃん祭りの「御旅所」

 「中山大塚古墳」の前方部を少し削った所に「大和(おおやまと)神社」の境外末社、御旅所「大和稚宮(おおやまとわかみや)神社」が在り、毎年4月1日大和神社の「ちゃんちゃん祭」で、午後2時頃、JR桜井線の長柄駅の近くに在る「大和神社」を出発した渡御の長い行列が、金盥(かなだらい)の様な銅鑼を叩いて「ちゃんちゃん」と鳴らし、また神輿を担ぎ、神主は白馬に乗り、更に氏子が同道し、遠路2キロのここ「中山郷大塚山(中山大塚古墳)」の「御旅所」まで来て、御供物を奉納され、「扇舞」「龍の口」と云う田楽舞を舞われて後、また一服して、渡御は再び長い行列を組んで「大和神社」まで帰って行きます。


ちゃんちゃん祭りのページへ

奈良観光表紙に戻る  山の辺の道散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む