北山の辺の道  その8−2

 歌塚(柿本寺跡)

 「和爾下神社」から南へ下りて、東西に延びる参道の直ぐ横に治道山「柿本寺(しほんじ)跡」があり、柿本人磨の遺骨を葬って「歌塚」と呼ばれています。元の「柿本寺」は、規模も大きく立派なお寺で、現在礎石の一部が残り、奈良時代の古瓦も出土していますが、1070年(延久2年)の「興福寺雑役免帳東諸郡」にも「柿本寺・・」とあり、当時は東大寺の末寺で、1183年(寿永2年)の「柿本朝臣人磨勘文」にも「春道社の杜の中に寺あり柿本寺と称す」と書かれ、また、大和文華館に保管されている重文「柿本寺曼陀羅」は鎌倉時代の作で、江戸時代には学僧が出て歌や茶道に親しんだが明治初期に廃寺となりました。
 興願寺薬師堂(かぼちゃ薬師)

 「歌塚」からまた「和爾下神社」の参道へ出て西へ行き、朱色の鳥居をくぐって国道169号線に出たら少し北へ戻ってから国道を渡り西へ向かうとJR桜井線の「櫟本駅」へ向かいますが、もう1つ北の道から西へ向かって、直ぐ右(北)へ折れるとハリネズミの様に墓石が乱立する前方後円墳の「櫟本大塚古墳」があるが、更に北へ行くと、天理市楢(なら)町の集落の中に「興願寺」があり、その前に「薬師堂」があります。江戸初期から春日厨子に安置された「木造薬師如来座像」を本尊として祀り、「しゃくの病」「耳の病」を治すと信じられ、初なりの南瓜を供えるので、「かぼちゃ薬師」として近在の崇敬を集めています。
 楢(なら)神社

 「かぼちゃ薬師」から「興願寺」の横を通って西の「上ツ道」へ出て、又南へ戻ると、楢集落の南東、楢川の南岸に銅の鳥居の「楢神社」が鎮座しています。祭神は、五十狭芹彦(いさせりひこ)命、別名吉備津彦命で、崇神天皇の御世に四道将軍の1人として西道に派遣され、更に、謀反を企てた武埴安彦と吾田媛を討って功があったと「日本書紀」にあり、当社は元約1キロ東の宮山(東大寺山)にあったが、宮山には、今は天照大神を祀る「明神神社」が鎮座して上の宮と称し、当社が下の宮と云われ、また、当社は「お水取り」で読誦される東大寺上院神名帳に「和爾・楢・巻向」と載っており、境内の井戸は子授けの霊水です。

 高良(こうら)神社

 なお、「楢神社」から「上ツ道」を南へ向って、直ぐに右(西)へ折れ、櫟本(いちのもと)公民館の前を通って直ぐ左(南)へ入ると、奧に「高良神社」が鎮座しています。ここは、奈良時代前期に建立された「長寺(おさでら)」の跡で、付近一帯に古瓦片が散布し、長寺、瓦釜、大門、経堂などの地名が現在も残っており、近くには同時代の寺院跡も数カ所点在し、ここ「長寺遺跡」からは、掘立柱の建物跡二棟分が確認され、建物Aは、梁行2間、桁行3間まで検出されたが、桁行は更に西へ延びていました。また、建物Bは、梁行3間、桁行4間でまだ西と北へ延びており、他に、弥生時代中期の遺構から壺も出土しています。




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