奈良南西部 西の京  その3
 秋篠川(あきしのがわ)

 「大安寺」から西へ向かうと直ぐに「佐保川」で、川を渡り更に西へ向かうと、写真の様な「秋篠川」に突き当たります。源は奈良市西部の学園前の大渕池、 下流で「佐保川」に流れ込み合流しています。なお、「秋篠川」は、平城京造営時に条坊(じょうぼう)に合わせて直線化された人工河川です。昔は佐保川より 溯(さかのぼ)って西市(にしいち、現在の大和郡山市九条町)へ物資を運ぶ水路として活用され、「西の堀川」と呼ばれていました。また、今の「秋篠川」は それほど水量が有りませんが、昔はもっと水量が豊かで、川の西側に上流から並ぶ唐招提寺、薬師寺等の造営にも「秋篠川」が利用されたと推測されています。
 三松禅寺(TEL 0742-44-3333)

 「秋篠川」の「城戸橋」を渡り、西へ行くと、直ぐ右(北)側が薬師寺の駐車場ですが、更に西へ進み、近鉄の西の京6号踏切を渡って左(南)へ行き、3つ目の辻を右(西)へ500m行くと、曹同宗、瑞雲山「三松寺(さんしょうじ)」があります。大和盆地内では随一唯一、永平寺より参禅道場として認可された寺で、「行学一致(修行と学問を一致させる事)」の学問道場です。毎週土曜日19:00〜20:30、坐禅会があり、参加料は志納です。なお、直接お寺へ行く場合は、近鉄橿原線「九条駅」から線路に沿って300m北へ行き、標柱「三松寺」の所を左へ曲がり西へ約500m、駅から徒歩で約10分が便利です。
 大池(おおいけ、勝間田池)

 「三松禅寺」の北250mの所に25年前、緑色の目をした子河童が現れた「大池」があり、堤長750m、堤高4.6m、受益面積120haの溜め池で、周囲の養護学校、国立療養所西奈良病院の親水空間として親しまれ、池を前景にして東を望むと、薬師寺の東西両塔、遠景に若草山、春日山を配した構図がカメラファンに好まれ、奈良時代に髭面の新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第10皇子、母は藤原鎌足の娘・五百重娘)が浮気の朝帰りで、「池に蓮が咲いていた」と云ったら、妻が「嘘おっしゃい、勝間田池に蓮はありません。貴方の顔に髭があるのに、無いと云うのと同じね」と、万葉集巻16−3835にあり。
 天満(てんま)神社の「本殿」

 「三松禅寺」からまた東へ戻り、突き当って北へ向かうと、右(東)側に普通の民家の様な大和北部八十八ケ所第二十八、二十九番霊場融通念仏宗「極楽寺」があり、北隣が境内に入れないけど、「天満神社」が鎮座し、祭神に菅原道真、蛭子(えびす)命、天照皇大神を祀っています。市指定文化財の本殿は、三間社流造、本瓦葺で、桁行三間、梁間一間の身舎(もや)に庇(ひさし)が付く流造で、桁、垂木(たるき)の反り、破風板等に桃山時代の特徴が見られますけど、建築年代は江戸時代です。また、屋根は現在本瓦を葺いていますが、鬼瓦に享保二年(1717年)の銘があるので、その頃に今の瓦葺に改められたようです。
 薬師寺休丘(やすみがおか)八幡宮

 「天満神社」から更に北へ行き、近鉄橿原線西の京第4号踏切を渡ると、正面に「薬師寺休丘八幡宮」が鎮座しています。890年頃(寛平年代)に薬師寺の鎮守として勧請され、国重文のご本殿は、1603年(慶長8年)豊臣秀頼の命により片桐且元が奉行で再建され、三間社流造、桧皮葺、左右に各桁行三間、梁間一間、一重切妻造の脇殿が付いた三棟で、平安時代の作で国宝の祭神、僧形八幡神、木造神功皇后坐像、仲津姫命坐像の三神像と、脇殿に祀られていた十九明神の板絵著色神像は、現在奈良国立博物館に寄託されています。なお、旧村社の「薬師寺休丘八幡宮」は、明治初年の神仏分離後も薬師寺で管理されています。
 薬師寺(TEL 0742-33-6001)の「南門」

 「休丘八幡宮」の北を流れる六条川を渡った真ん前に建っているのが南都七大寺の1つ、平城京右京六条二坊に位置する法相宗「薬師寺」の国重文「南門」です。680年(天武天皇9年)11月12日第40代天武天皇が皇后(後の第41代持統天皇)の病気平癒を祈願して建て始め、18年後孫の第42代文武天皇が現橿原市城殿(きどの、本薬師寺跡)に創建しましたが、平城京遷都後の718年(養老2年)現在地に移建して、726年(神亀3年)8月8日女帝の太上(元正)天皇のために釈迦像ならびに法華経を写し、「薬師寺」で斎を設けて、730年(天平2年)3月9日「東塔」が建ち、一応伽藍の造営が成りました。




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