佐保、佐紀路辺り その16

 平城宮跡の直ぐ北にある「平城天皇楊梅陵」

 「佐紀幼稚園」から東へ300mほど行くと、幅の狭い「県道751号木津平成線」、昔は、平城京から平城山(ならやま)の丘陵を越えて山城国へ通う南北の主要道「歌姫越」の街道で、そこを渡って更に東へ150mほど行くと、第51代平城天皇の御陵「楊梅(やまもも)陵」が左(北)にあります。平城天皇は都が平安京へ遷っても、安殿親王の頃の平城京が懐かしく、天皇譲位後、不退寺へ移り住み、奈良で亡くなりました。なお、「楊梅陵」は、近年の調査で、5世紀に造営された全長250mの前方後円墳で、「市庭(いちにわ)古墳」と呼ばれ、平城宮造営の時に前方部が破壊されて、周濠も埋められ、現在は円墳です。
 国の特別史跡「平城宮跡」第一次大極殿

 平成22年4月平城遷都1300年祭を記念して復元された「大極殿」は、正面44m、側面20m、地上からの高さ27mで、直径70cmの柱44本、屋根瓦約9万7千枚を使い、当時も平城宮最大の宮殿で、天皇の即位式や外国使節との面会など、国の最も重要な儀式のために使われ、南面に十三堂と朝集殿を配して、大臣らが政務を行った「朝堂院」が置かれ、北面には天皇の居所「内裏」があり、その他に国政を担当する太政官や式部省、民部省など二官八省の建物が整然と並び、そこで7千人の役人が働き、その内貴族は100人ほどでしたが、平城宮の広さは約130ha(今の皇居とほぼ同じ広さ)、7代74年の都でした。
 平城宮跡資料館(TEL 0742-30-6752)

 平城宮跡の西側、近鉄「大和西大寺駅」からバスもありますが、駅から東へ徒歩約15分の所に奈良文化財研究所の「平城宮跡資料館」があります。昭和30年に初めて平城宮跡の発掘調査に着手し、昭和34年からは連続して発掘調査を行って、そこから出土したさまざまな遺物や、建物の復原模型を展示しながら、写真の様に奈良時代のモデルも展示し、平城宮について判りやすく説明され、また、年度毎の発掘調査の速報展も実施しています。入館は無料で、ボランティアによる解説もあって、公開は、9:00〜16:30(但し、入館は16:00まで)。休館日は、月曜日(月曜が祝日の場合は、その翌日)と年末年始です。
 平城宮跡の「内裏(ないり)の井戸」

 平城宮跡の内裏とは、かって天皇が日常的に生活をしておられた所で、政治や儀式を行い、時には貴族を招き入れて宴会なども開かれました。また、内裏の中には、天皇の身の回りの世話をした女官たちの役所もありましたが、内裏の東端部で写真の様な「井戸」が見つかっています。大きさは直径1.7mの杉の木をくり抜いた井筒を据え、周りに切石や玉石を敷き詰めた立派な井戸で、ここの井戸の水が天皇のために用いられました。なお、この実物大の模型は、元々あった本物の井戸を土で覆った上に、新しい材料を使って再現されています。また、井戸の周りの柱は、途中で切られていますが、昔は井戸の上に屋根がありました。
 平城宮跡の復元建物「宮内省」

 平城宮跡の「大極殿跡」の直ぐ裏(北)に天皇のいた「内裏(ないり)跡」があって、その東側の一画でも建物の跡が見つかっています。天皇のための仕事をする「宮内省」関係の建物と見られ、築地塀(ついじべい)で囲まれた区画は東西約50m、南北約90mほどあり、その中に瓦葺(かわらぶき)の正殿(せいでん)や、檜皮葺(ひわだぶき)の脇殿(わきでん)、倉庫など6棟の建物がありました。それらを発掘調査した成果をもとに、現存している奈良時代の建物の姿かたちを参考にして、写真の様に昔のままの築地塀と建物の一部が復元されています。なお、建物の復元にあたって、出来るだけ当時の工法が用いられました。




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