佐保、佐紀路辺り その15

 成務天皇挟城盾列池後陵

 「稱徳(孝謙重祚)天皇高野陵」の西側の木立の中を少し登って北へ出ると、直ぐ眼前が全長218mの「佐紀石塚山古墳」で、「成務(せいむ)天皇挟城盾列池後陵(さきノたたなみノいけじりノみささぎ)」です。第13代成務天皇は第12代景行天皇の第4皇子で、名を稚足彦天皇(わかたらしひこノすめらみこと)と云い、日本書紀によれば、成務天皇の時に、初めてそれぞれ地方の国県の区画を定め、国、郡(こおり)、県(あがた)、邑(むら)のそれぞれに首長を置いたと伝えられ、在位60年で崩御されました。また、「成務天皇陵」と「歴史の道」を挟み、直ぐ東隣の濠の中が「垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命陵」です。
 垂仁天皇皇后・日葉酢媛命陵

 第11代垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめノみこと)挟木之寺間陵(さきのてらまノみささぎ)は、明治7年御陵に治定され、全長207mの前方後円墳です。彼女は丹波道主(たにわみちぬし)王の娘で、垂仁天皇32年7月6日に亡くなったが、その前に天皇の弟、倭彦(やまとひこ)命が亡くなって、墓の周りに近習も生き埋めにしたら、数日間泣きわめいて息が絶え、後を犬や烏が食い散らかして、目も当てられない惨状で、天皇は野見宿禰の進言により殉死を禁じて、日葉酢媛の墓には人の代わりに埴輪を作って並べ、これが埴輪の起こりで、古墳から内行花文鏡、四獣鏡や、蓋形埴輪、家形埴輪などが出土しました。
 西畑(にしはた)の「佐紀神社」

 「日葉酢姫命陵」の南東に「御前(おまえ)池」があり、池の西側に「佐紀神社」が鎮座していますが、当社は、「御前池」の東側、小字亀畑(かめはた)に鎮座する「佐紀神社」を分祀したもので、祭神は、天児屋根(あめノこやね)命、経津主(ふつぬし)命、六御縣(むつノあがたにいます)神の三座で、亀畑の「佐紀神社」の祭神と同神です。また、鳥居の前の石標には、「式内佐紀神社」と彫られ、「延喜式」神名帳添下(そえしも)郡の「佐紀神社」に比定していますが、この神社に関しては「大和志」において「在超昇寺村(今の奈良市)、今称大宮」と記されています。なお、秋の例祭は、毎年10月10日に行われます。
 隆光大僧正の墓石

 「御前池」と「佐紀池」の間を通って東へ行くと、道を挟んで「佐紀神社」の前(南)に「佐紀幼稚園」があり、その裏(南側)に「隆光大僧正の墓石」が建っています。隆光大僧正は、1649年(慶安2年)この付近で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設しましたが、「生類憐れみの令」を綱吉の母、桂昌院に進言し、彼女の援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年(永禄10年)松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの大仏殿再建に当たって、東大寺の公慶上人を助け、隆光大僧正は晩年、故郷の超昇寺(現在は、廃寺)に引退し、1724年(享保9年)に亡くなりました。
 亀畑(かめはた)の「佐紀神社」

 「佐紀幼稚園」の前、道路を挟んで北側に鎮座するのが小字亀畑の「佐紀神社」で、673年(天武天皇白鳳2年)鎮祀し、「超f(ちょうしょう)寺」建立と同時に鎮守神になり、祭神は相殿三座に、天児屋根命、経津主命、六御縣神を祀り、第59代宇多天皇の時、891年(寛平3年)9月始めて官社に列して、春冬2度の班幣に預かり、演昭大僧正に大命があって「超f寺」が別当寺になりました。後に第81代安徳天皇の時、1180年(治承4年)平重衡の兵火で焼失したけど、朝家の尊崇厚く、中御門左大臣家忠公の奏聞により、1190年(文治6年)4月再建され、1578年(天正6年)再び兵火で焼失しています。




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