「大和三山」と「長寿道」の辺り  その4

 畝火山口神社(TEL 0744-22-4960)

 「安寧天皇陵」から北東へ廻ると、畝傍山の北麓に「畝火山口(うねびやまぐち)神社」が鎮座し、鳥居の横に万葉歌碑巻7−1335が建っています。祭神は、息長足姫命(神功皇后)、豊受比売命、表筒男命(住吉大神)で、毎年7月26日早朝、神官らが壺阪峠を越えて、大淀町土田の吉野川河畔まで神水を汲みに行く「お峰山の水取り」の後、28日・29日夏季大祭(でんそそ祭)で、「お峰デンソソの太鼓が聞こえたら田に入ったらあかん」と云い、農家はこの日を目途に田の仕事を終える様に努力され、28日の夜は参道に五色の幟が立ち、近在の参詣者で賑わい、夏やせする子は、綿入れを着て参ると御利益があります。
 水仙(すいせん)塚古墳

 「畝火山口神社」から更に北へ行くと、「天神社」が鎮座し、その北隣が曹洞宗雲飛山中宮院「慈明禅寺(じみょうぜんじ)」で、東側の丘が「水仙塚古墳」です。「畝傍山」の北西麓、低く延びる丘陵の尾根上にある前方後円墳で、全長約65m、後円部の直径約50m、高さ約10m、前方部の長さ約40m、幅約30m、高さ約5m、埴輪の有無、主体部の構造等は学術調査がなされてないから、明らかでないが、学問的に注目すべき古式の古墳で、造成年代は古墳時代前期と推定され、古来より「スイセン塚」と云う名称より、綏靖(すいぜい)天皇陵と伝えられているけど、本居宣長は「古事記伝」で神武天皇陵としています。
 初代「神武(じんむ)天皇陵」

 「天神社」から北へ出て、次の辻を東へ向かうと、137歳で崩御された初代神武天皇の「畝傍山東北陵(うねびやまノうしとらノすみノみささぎ)」です。陵域は東西126m、南北116mの濠が御陵を囲んでいますが、初代の神武天皇の御陵は、久しく不明のままで、江戸時代の中頃、1700年頃(元禄年間)以降、今の地から北方200mにある四条町の「綏靖(すいぜい)天皇陵」をあてられたけど、1863年(文久3年)「ミサンザイ古墳」が御陵に治定され、その後は、明治時代以降もたびたび整備拡張が実地されて、特に神武天皇が即位された後、皇紀2600年に当たる昭和15年には、盛大な式典が行われました。
橿原考古学研究所付属博物館(TEL 0744-24-1185)

 「神武天皇陵」の長い参道を南へ出て、バス通りを渡って東へ向うと、近鉄橿原線「畝傍御陵前駅」ですが、バス通りを渡って次を右(南)へ折れると、県立橿原考古学研究所附属博物館があります。昭和13年以来橿原考古学研究所が行ってきた発掘調査で出土した実物資料を常設展示する「大和の考古学」は、日本考古学の基準資料をもとに「目で見る日本の歴史」になっており、同時に春季特別展が4月中旬〜6月中旬に、そして、秋季特別展が10月上旬〜11月下旬に行われ、他に特別陳列・企画展、速報展、こども考古学講座等も開催され、入館は9:00〜16:30、休館は毎週月曜(当日祝日の場合は翌日休館)です。




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