人麻呂生誕地「葛城市新庄」  その2

 重要文化財「村井(むらい)邸」

 「柿本神社」の裏に廻って、葛城市新庄庁舎の裏を真っ直ぐ西へ向うと、葛城市新庄柿本から新庄南道穂(みなみみつぼ)へ入り、南北に通る道に突き当たって、道に面した藁葺きの「表門」が江戸時代の代表的な民家「村井家住宅」です。村井家は代々庄屋を務めた家柄で、当家に伝わる古文書によると、1699年(元禄12年)に棟上され、翌年に完成したとあり、東側の狭い道に面した茅葺の「表門」と、北側に建つ切妻と入母屋を組み合わせた茅葺(かやぶき)の「主屋」、そして、南西側に建つ「土蔵」が国の重要文化財に指定され、今でも邸内に村井氏が住んで居られます。また、村井家の西側が葛城市立新庄小学校です。
 浄土宗「法林寺(ほうりんじ)」

 新庄小学校の更に西側に浄土宗涼井山「法林寺」があります。その昔、お寺の周囲が荒れ果てていた頃、鎌倉の師匠・千葉が吉野山で仏道修行中、道穂の村を通り、当寺に思いを寄せ、復興管理に尽力されたのが始まりで、彼の親の名が「法林」、始めの住職が千葉なので、涼井山千葉院「法林寺」と称して、本堂は、1515年(永正12年)長厳上人が創建し、その後衰微したけど、1580年代(天正10年頃)大いに復興し、1699年(元禄12年)本堂が再建されています。なお、本堂前の横手に、高砂産、竜山石、流紋岩質溶結凝灰岩の刳抜式(くりぬきしき)石棺が置かれていますが、掖上鑵子塚古墳のものだそうです。
 旧村社「諸鍬(もろくわ)神社」

 「法林寺」から北へ500mばかり行くと、葛城市新庄弁之庄の集落北方、大きな道路の横に鳥居が建っているが、鳥居をくぐると直ぐ畑で、その先に「諸鍬神社」が鎮座しています。宇佐八幡とも称し、領主の桑山氏が本貫地尾張國海東(かいとう)郡にあった産土神、「諸鍬神社」を転封の課程で但馬國や紀伊國に勧請・遷座し、1601年(慶長6年)桑山一晴が新庄へ入部して弁之庄に奉還したが、1680年(延宝8年)新庄藩主桑山一尹が北花内村(葛城市新庄北花内)の飯豊青皇女の墓と云う三才山(さんさいやま)に遷祀し、「宇佐の社」と称したが、その後、一尹が改易されて、1864年(元治元年)旧知に復祀しsました。
 臨済宗「慶雲(けいうん)禅寺」

 「諸鍬陣社」から南へ戻り、少し西へ行き、また南へ入ると、葛城市新庄大屋の東部で、旧竹内下市街道沿いに龍富山「慶雲禅寺」があります。布施氏の菩提寺で、京都は南禅寺派、古くは真言宗に属し、二塚城の近くにあったが、城主布施掃部頭行種が1516年(永正13年)3月禅宗に改宗して現在地に移転し、「香花寺」と号していたけど、その後、1630年頃(寛永年間)江戸から梅渓和尚を迎え初住して、号を「慶雲寺」とされ、新庄藩主桑山氏が帰依して山門を布施城から移したとかで、慶安3年(1650年)銘の瓦があります。本堂の「大悲閣」は、1710年代(正徳年間)に建立され、やや大き目の三間堂です。
 社会教育センター(TEL 0745-69-6911)

 「慶雲寺」からちょっと北へ戻って直ぐ西へ向い、県道30号御所香芝線を渡って、更に西へ行くと、右手の小高い丘に「奈良県社会教育センター」が建っています。ここで現地研修講座、文化講座、指導者要請研修などが行われ、視聴覚ライブラリーとして新着ビデオも取り揃えていますが、研修施設の本館に隣接して、宿泊施設・レストラン「かつらぎ」があります。和・洋室・特別室20室の他に広間やホールを備え、葛城山系を背にしたセンターの周辺では、4月の宵にライトアップされた桜が楽しめ、さつきやツツジも多く、また、宿泊や会議の他、宴会等にも利用する事が出来、利用の予約は、1年前から受け付けています。




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