人麻呂生誕地「葛城市新庄」  その4

 国史跡「二塚(ふたつか)古墳」

 「淨願寺」の裏から住宅の横を通って、「近畿自然遊歩道」を西へ300m登ると、葛城山の東麓、奈良盆地を見渡す標高約200mの高台に「二塚古墳」があります。「銭取(ぜにとり)塚」とも呼ばれる前方後円墳で、全長約60m、前方部幅41m、後円部径36m、高さは前方部・後円部共に10m、周囲に周濠に相当する幅15mの平坦部が設けられ、埴輪は出土していないが、墳丘表面に扁平な石材を用いた貼石が認められ、昭和33年橿原考古学研究所の発掘調査によって、前方部、後円部、造り出し部の3か所に横穴式石室が確認され、金銅花形座金具や水晶製三輪玉等が出土し、6世紀中頃の築造と推定されています。
 「布施城跡(ふせじょうあと)」

 「二塚古墳」からちょっと南へ行き、流れの速い小川に沿って、金剛生駒国定公園「葛城山系」に属する横峰(標高726m)へ向かって西へ登ると、その手前に標高500m足らずの「布施城跡」が聳えています。布施氏が「寺口山」に築いた山城で、築城の時期は不明ですが、城域は、東西600m、南北150mで、標高484mに築かれた主郭を中心として、細い尾根上に階段状の曲輪を配置した「連郭式山城」でした。なお、布施氏は、中世〜近世の始めにかけて葛城市新庄町の辺りを支配した豪族で、布施氏の氏寺「布施寺(置恩寺)」の石灯籠に布施行國の名が刻まれ、麓の「屋敷山古墳」の上にも居館を構えていました。
 高野山真言宗「置恩寺」

 「二塚古墳」から「布施城跡」へ登らずに真っ直ぐ「近畿自然歩道」を南へ向うと、奈良盆地に浮かぶ大和三山を東方に見る高台に「置恩寺(きおんじ)」があります。正式には医王山・布施山安養院「置恩寺」と号し、720年代(神亀年間)行基の開基で、奈良時代末〜平安時代始めに置始(おきそめ)氏の氏寺として建立され、中世には布施氏の氏寺で、「布施寺」と称し、郡内第一の巨刹でしたが、布施左京進行盛の二塚城が1570年頃(元亀年間)落城した時、兵火で焼失し、今は往時を偲ぶ国重文「十一面観音立像」が安置され、平安時代作で、桧の一本造、像高172cm、鼻筋が細く微笑を湛え、均衡のとれた像です。




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