高取  その2
 県文化財指定「武家屋敷の長屋門」

 なお、石畳の旧街道を真っ直ぐ南へ行くと、旧高取城の大手門通りで、城下の下土佐、上土佐から黒門、別所廓を経て「二ノ門」へ至る道が大手筋と云われ、途中の高取町下子島で道に面して左側に旧高取藩筆頭家老中谷(なかねや)氏の邸宅だった「家老屋敷門」があります。今は、1640年(寛永17年)高取藩2万5千石の城主として入城した譜代大名植村家政の子孫の方の邸宅で、江戸時代末期の1826年(文政9年)に建てられ、間口39.1m、奥行4m、棟高5m、一重入母屋瓦葺造、白の漆喰を盛り上げた格子模様の「なまこ壁」が重厚で美しい景観を造り出し、近代武家屋敷表門の遺構をよく残し貴重な建物です。
 信楽寺(しんぎょうじ)の「お里・沢市の墓」

 「長屋門」から少し戻って西へ行った角に「お里・沢市の菩提所」があります。今から300年以上も昔(寛文年間)壺阪寺の麓、大和国高取郷土佐町に住んでいた沢市と云う盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした物語は「観音霊場記」に書かれ、これに二世豊沢団平と妻千賀女の加筆したのが浄瑠璃、歌舞伎、浪曲「壺坂霊場記」で、お里沢市夫婦の純愛物語は日本国中、更に海外まで知れ渡りましたが、元々は9世紀初め、弘仁年間(820年頃)盲目の沙弥が壺阪観音を信仰して開眼治癒したと云う話が「日本感霊録」にあり、「壺阪寺古老伝」にも記され、その頃から壺阪寺のご本尊十一面千手観音が民間の信仰を集めていました。

 壺阪寺(TEL 0744-52-2016)の仁王門

 「お里・沢市の菩提所」から南へ行き、左に釣堀を見て更に進むと 狭い道の両側の家並はどっしりして風格があり、船戸橋を渡ると、壷阪寺前行のバス通りで、約500m登って分岐点から下の山道へ入ると、途中に小さな滝や不動さんが立ち、途中から細く急な坂道をくねくね1キロ登ると、西国三十三所第六番札所、真言宗豊山派「壺阪寺」(正式には壺阪山平等王院「南法華寺」)に辿り着きます。開基は、703年(大宝3年)元興寺の弁基上人が愛用の水晶壺の中に観世音を感得して、その像を刻みました。なお、近鉄吉野線「壺阪山駅」から壺阪寺前行バスがあり、12月1日〜2月末迄運休で、日・祝、正月は運行です。



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