高取  その6
 天誅組を撃破した大砲(模造品)

 近鉄吉野線「壺阪山駅」から南側の陸橋を渡ると、高取町役場の斜め前に「天誅組鳥ケ峰古戦場」の碑が建っています。合戦の絵図は「天理図書館」にあり、1863年(文久3年)8月26日尊王攘夷急進派、天誅組千余名が五條から来襲し、司馬遼太郎氏の短編「おお大砲」によると、「大阪夏の陣」で用いた大砲(ブリキトース)を高取藩が六門保管していて、その内使用可能な一門から打ち出された三貫目玉が五町余(約600m)飛んで天誅組隊士・酒井の兜に当り、彼は一晩中耳鳴りがして眠れなかったそうで、なお、大砲の模造品は役場から西へ下りて、右へ折れ、北へ行った直ぐの「リベルテホール」の玄関にあります。
 真弓丘陵(まゆみノおかノみささぎ)

 また、「高取町役場」の下へ戻り、「高取中学校」の前を西へ行き、突き当たったら右へ折れて北へ行くと、左手の森地区に「岡宮天皇(おかみやてんのう、草壁皇子)陵」、「真弓丘陵」があります。草壁皇子は、662年(天智天皇元年)第40代天武天皇と後の女帝第41代持統天皇の間に、筑紫の那ノ大津宮で生まれ、689年(持統天皇3年)4月13日28歳で崩御して、奈良時代になってから、758年(天平宝字2年)「岡宮御宇天皇(おかノみやにあめノしたしろしめししすめらみこと)」と追号され、なお又、「岡宮」は草壁皇子の住んでおられた宮で、「嶋(しま)宮」とも云って、現在の「岡寺」の辺りです。
 束明神(つかみょうじん)古墳

 「真弓丘陵」から更に北へ行くと、佐田の集落で、北西の山裾の高台に「春日神社」が鎮座して、境内に「束明神古墳」があります。尾根の南側斜面を弧状に掘削して、径約60mの範囲で半円形の平坦面を造成し、その中央部に墳丘を造っていますが、昭和59年4月16日から発掘調査を行って、石槨の規模等は、これまで調査された終末期古墳で見られなかったほど大規模なもので、高松塚古墳よりも大きく、石槨の変遷、棺の構造、須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃の古墳と考えられ、また、歯牙6本が出土し、男女の性別は不明ですが、年齢は青年期から壮年期と推定され、草壁皇子の墓と云われています。



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