東大寺  その7

 若草山(三笠山)の一段目

 毎年正月の「山焼き」で有名な「若草山」は、皆さん修学旅行で来られたり、絵葉書で見られて良くご存じの様ですが、「若草山」を麓から見た時は、写真の様にしか写らず、「若草山」が実は笠を伏せた様な3段からなる山で、昔は若草山を「三笠山」と称していました。麓からは1段しか見えないが、入山料150円を払って(入山は、9:00〜17:00、但し、入山期間は、3月 21日〜6月15日、9月10日〜11月25日です)頂上(標高 308.6m)へ登って、見下ろすと「若草山」が3段からなる山で有ることがよく分かります。なお「若草山」へ入山出来ない時は、南側から山道を迂回して頂上へ登れます。
 野上神社での「山焼き祭典」

 毎年1月の第4土曜に行われる「若草山の山焼き」は、当日の17:15、聖火行列(若草山の麓から、南へちょっと下った吉城川の畔に建つ春日大社の摂社「水谷神社」の辺りから、松明を掲げた東大寺の僧兵姿の数人と春日大社の神官数人が、吉城川の赤い欄干の橋を渡って、石段を登り、若草山の南麓に建つ春日大社の末社「野上神社」まで行進します)。17:30、山焼き祭典(「野上神社」で篝火を焚いて行われます)。そして、17:50、合図の花火数百発の大輪打ち上げ。18:00、若草山に一斉点火です。なお、「山焼き」の由来は、東大寺、春日大社、興福寺との境界争いに端を発した行事とも言われています。
 「若草山」の「山焼き」

 「若草山の山焼き」の由来については諸説が有り、「若草山」全山約33ヘクタールに生えている芝生や茅の春の芽生えを促す為、冬の枯れ草を単に焼くだけと云う説も有り、はっきりしているのは江戸時代中頃1760年(宝暦10年)南都奉行所の延焼防止統制のもとで行われたのが起源で、「若草山」南麓に鎮座する「野上神社」で例祭の後、春日の御神火を以て一斉点火しますが、多分、農家の農耕儀礼と同じ様な理由で今日まで伝わっている様です。写真は、東大寺「南大門」から東すぐ近くに位置する芝の広場「春日野園地」から撮ったもので、「奈良公園シルクロード交流館」前の2基の街灯が緑の芝を照らしています。
 「若草山」二段目からの望遠

 写真は、「若草山」の麓から見る事の出来ない二段目からの眺望です。また、二段目からは更に足が竦む様な尾根をつたって三段目に上がると、上の出入り口(料金徴収所)があり、頂上からは北に山城の山々、南に二上山、葛城山、金剛山の山々が望まれて、西に写真の様に矢田山系越しに生駒山系が望まれ、また、古(いにしえ)の平城京跡も目の直ぐ下に見えます。なお、「若草山」の直ぐ南隣に少し低く、笠を伏せて蓋(ふた)をした様な山が御蓋山(みかさやま、標高294.1m)です。なお、昔は「若草山」も三笠山と呼ばれていましたが、今は紛らわしいのでそうは呼びません。また、頂上には「鶯塚古墳」が在ります。
 国史跡「鶯(うぐいす)塚古墳」

 1728年(享保13年)東大寺の僧康訓が碑「鶯陵」を建てた「鶯塚古墳」は、日本で最も高い所に築造され、軸を南北に向けた前方後円墳で、全長103m、前方部幅50m、後円部径61mの規模をもち、二段築造の墳丘に葺石や家形埴輪、前方部西南隅で石製の斧や内行花文鏡が出土し、碑文では、仁徳天皇の皇后、磐之媛命の平城坂上陵になっていますが、確証はなく、築造は、4世紀末と推定され、丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳で、清少納言の「枕草子」に記されている「うぐいすの陵(みささぎ)」と云われ、名前もそれから取り、また、周辺には陪塚と考えられる円墳、方墳などが3基ほど確認されています。
若草山の山頂から見た夜景 / 若草山の山焼き 




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