東大寺  その2

 東大寺の国宝「南大門」

 バス停「大仏殿春日大社前」の交差点から北を見ると、東大寺の参道の奥に「南大門」が望まれ、創建は大仏開眼法要の行われた752年(天平勝宝4年)ですが、平安時代962年(応和2年)8月台風で倒壊し、1180年(治承4年)12月平重衡(たいらノしげひら)による奈良攻めの兵火を経て、1199年(正治元年)6月俊乗坊重源(ちょうげん)上人が上棟し、山口県から運ばれた21mの柱18本を立て、大仏様(よう)式で、五間三戸二重門ですが、下層には天井がなく腰屋根構造、入母屋造、基壇からの高さ25.46m、同時期に完成をみた仁王さんを安置して、1203年(建仁3年)10月に竣功しました。
 国宝「仁王(二王、金剛力士像)」

 勇猛な忿怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)をした仁王さんは、仏法を守護する為、お寺の山門や須弥壇(しゅみだん)前面の両脇に安置された一対の執金剛神(しゅうこんごうじん)で、門に向かって左が口を開けた阿(あ)形の密迹金剛(みっしゃこんごう)で快慶の作、右が口を閉じた吽(うん)形の那羅延金剛(ならえんこんごう)で運慶の作で、1203年(建仁3年)7月24日から各々弟子9人と共に69日間で完成し、それぞれ8.4m、桧の寄木造ですが、何故だか東大寺「南大門」では、他所とは左右が反対に並んでいます。また、門の裏に渡来宋人陳和卿(ちんなけい)らの造った国重文の「石造獅子」もいます。
 浮雲園地の南を流れる「吉城川」

 東大寺の参道を北へ向かって、「南大門」までの橋の下を「吉城川(よしきがわ)」が流れています。源を東の「春日山原始林」に発し、西の「佐保川」へ流れ込んで行きます。なお、この川は昔、万葉集にも詠われ、その時代は、宜寸川(よしきがわ)と書かれ

 吾妹子(わぎもこ)に 衣(ころも)春日の宜寸川
 よしもあらぬか 妹が目を見む 巻12−3011

「春日(かすが)」と「貸す」、「宜寸」と「良い方法」を引っかけ、彼女に着物を貸してやりたいが何か良い方法はないかと思案し、彼女を見つめています。
 「三社池」から「若草山」を望む

 東大寺の参道から水の少ない「吉城川」に沿って、上流の方へ向うと、小さな「春日野橋」が架かり、この辺りから上流が奈良公園でも紅葉の名所で、その北が広々とした芝の広場「春日野園地」、園地内には東大寺の参道寄りに小さな滝の在る「三社池」に鮒やメダカの様な鯉の稚魚が泳ぎ、そこの吾妻屋から東に「奈良公園館」の後に「若草山」が良く見えるので、この辺りが毎年正月「成人の日」の前の日に行われる「若草山焼き」を見学するのに絶好のポイントです。また、「吉城川」の南、芝の広場が「浮雲園地」で、東側に奈良県置県100年を記念して、昭和52年に建設された能舞台を持つ「県新公会堂」があります。
奈良公園シルクロード交流館(TEL 0742-24-0770)

 昭和63年に奈良公園および平城宮跡で開催されたなら・シルクロード博を記念して建てられた「奈良公園館」は、平成16年4月23日館内を一新して「奈良公園シルクロード交流館」になって、以前は館内でシルクロードの歴史と文化に関する資料を展示していましたが、現在は館の奥の方で僅かにそれらしき物を数点ばかり展示しているだけで、何も見る様な物は無く、勿論無料展示です。なお、館へ入って直ぐの処が、レストラン「クイーン・アリス」で、旬の地元食材を使った料理を出し、ランチが1890円〜、11:00〜17:00、ディナー(予約制)5000円〜、17:00〜21:00、毎週月曜が定休日です。
 県新公会堂(TEL 0742-27-2630)

 「県新公会堂」は、館内に4カ国語の同時通訳の設備を備えた168席の大会議室、馬蹄形テーブルのある会議室、10人程度の小会議室4室、および、500人収容のレセプションホール、我が国古来の伝統芸能にふれ、県民の文化活動を育成し、振興する為の拠点として、能楽を始め国際会議や講演会に使用できる500人収容の「能楽ホール」、そして、レストラン「奈良迎賓館」があり、ランチタイムは、11:00〜14:00、カフェタイムが、14:00〜16:30で、若草山御蓋山を借景にした庭園を見ながら寛げます。なお、地下に50台収容の駐車場もあり、毎週月曜日(休日の時は、その翌日)が休館日です。
 東大寺の境内を流れる「白蛇川」

 東大寺「南大門」から「大仏殿」へ向かう途中で、参道を横切るように流れているのが「白蛇川」です。昔、吉野の大峯山上を開かれた聖宝僧正(しょうほうそうじょう、理源大師)が洞川の窟に住む1匹の白蛇を封じましたが、僧正が東大寺「東南院」の書斎で本を読んでいると、天井から白蛇が現れ、灯火を消して飛び掛ろうとしたので、暗闇に光る白蛇の眼をぐっと睨んだ僧正が、「おとなしく洞川へ帰れ」と云うと、白蛇はす〜と消え去りましたが、その後、白蛇は毎夜物悲しげな姿で現れるので、哀れに思われた僧正は、白蛇のために吉野の洞川と奈良の餅飯殿に弁才天を祀り、東南院の北の川に白蛇を放してやったそうです。
 東大寺境内の「五百立(いおたち)神社」

 東大寺「南大門」から「大仏殿」へ向かう参道の左(西)側に小高い丘の「五百立山」があり、緩い階段の左側に赤い社の「五百立神社」が鎮座しています。「番匠(ばんじょう)社」とも云われて、1056年(天喜4年)5月の東大寺起請案(東大寺文書)では「五百余所社」と記され、室町時代初期の「東大寺縁起絵詞」に東大寺造営500人の木匠を祀るとあり、現在は、「手向山八幡宮」の末社です。なお、「東大寺続要録」によると、1230年(寛喜2年)10月に正倉院宝物が盗まれた時、鏡八面が「五百余所社」に隠されていたそうです。また、「五百立山」には、鉄道職員殉職者供養塔(十三重石塔)が建っています。

 「鏡池」越しに「大仏殿」を望む

 「五百立山」から参道を挟んだ東側が「鏡池」で、鯉や鮒と共に水草を食べ、目が大きく、頭が小さい、奈良県指定天然記念物の「馬魚(ばぎょ、ワタカ)」が泳いでいます。また、東大寺の雅楽は、鏡池の中に舞台を造って行われ、「鏡池」の北に回廊で囲まれた中に見るのが、世界最大の木造建造物、国宝の「大仏殿」で、正面の門は、1717年(享保2年)落慶供養の国重文「中門」です。門に向って左に立つのが、左手に剣を持つ持国天。右が、左手に多宝塔を捧げた多聞天(毘沙門天)で、いずれも仏を守護する四天王の1神です。それぞれ足元に二匹の邪鬼が横たわっていますが、多聞天は地天の両肩の上に立っています。
 東大寺鏡池東側の「イヌマキ」

 東大寺[鏡池」の手前、南側の道を通って「手向山八幡宮」や「二月堂」、「三月堂」の方へ上がって行く道の左、朱色の鳥居の南側に「イヌマキ」があり、樹高11m、幹周り2.6m、推定樹齢400年で、地上3.2m程の所から幹が東西方向に分かれ、東側の枝は、腐ったために県公園管理事務所で雨水が入らない様にブリキで蓋をしています。なお、イヌマキは普通「マキ」と呼ばれ、庭の垣根に植え、樹皮が黒褐色で、縦に浅く裂けます。東側にも巨樹があるけど、当木はマキとしては、余りにも大きいので、枝が垂れ下がり、5月か6月頃に花が咲き、秋には実が熟し、赤い所を食べると、口の中に甘い香りが広がります。
 兜跋毘沙門天の足元の「地天女」

 国宝「大仏殿」を囲む回廊の中央に位置する国重文「中門」の左右に仏法を守護する「四天王」の2神、「持国天」と「多聞天(毘沙門天)」が立って居ますが、向って右は、「兜跋(とばつ)毘沙門天」です。742年(天宝元年)中国・唐の玄宗皇帝が領土の前線(キジル地方)にあった安西城をチベット軍に攻められた時、城内の僧侶が戦勝祈願をすると、城門楼上に「兜跋(長い外套のような上着を着た)毘沙門天」が出現し、チベット軍を撃退しました。我が国には、805年(延暦24年)帰朝した遣唐使によって請来され、彼は地天女(ちてんにょ)の両手で支えられ、左に尼藍婆、右に毘藍婆の邪鬼を踏み従えています。
 東大寺の国宝「大仏殿(金堂)」

 中門から回廊に沿って左に迂回すると大仏殿の入口で、香華料(入堂料)大人500円、拝観は、4月〜10月が7:30〜、11月〜3月が8:00〜で、年中無休です。回廊の中央、線香の煙る中門の内側から石段を下りて、正面の「大仏殿」へ向う足元の石畳は、中央の黒っぽい石がインド産、両サイドの赤っぽい石が中国産、外側の白ぽっい石が韓国産、その外側菱形に敷かれている石が日本産です。なお、写真では手水屋の屋根の陰で見え難いが大仏殿前の高台に賓頭盧(びんずる)尊者がいて、また、向って左の菩提樹は、1191年(建久2年)栄西が中国天台山から持ち帰って重源に与え、重源が移植した樹の後身です。




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