山背(やましろ)古道  その2

 重文「木津惣墓(きづそうばか)五輪塔」

 また、「稲荷神社」から「奈良街道」へ出て、北へ進み、「大路」との交差点を右へ曲がり「極楽橋」を渡って北に見える「信楽寺」の手前を右(東)へ曲がると、児童館の斜め前に「木津惣墓五輪塔」が建っています。花崗岩で出来た高さ3.6mの典型的な鎌倉時代の五輪塔です。惣墓は、一般庶民の間に個人墓が普及する以前の葬礼の一形態で、いわゆる共同墓地を意味しています。木津惣墓五輪塔の最下部、地輪には東・南・北面に刻銘があり、一番古いのは、正応五年(1292年)になっていますけど、建立の要因は、記されておらず不明ですが、伝承によると、木津川の氾濫で亡くなった人々の供養の為に建立されたとか。
 天王(てんのう)神社

 「木津惣墓五輪塔」から又ちょっと西へ戻り、右へ曲がって北へ行くと、jR「木津駅」から西へ延びた狭いバス道路に出て、その角に「天王神社」が鎮座しています。創建は、1410年代(応永年間)と伝えられ、京都祇園社(八坂神社)から勧請されました。祭神は、牛頭天王(ごずてんのう、素戔鳴命)です。一般に祇園と云われるのは、869年(貞観11年)京都下河原に住む僧の円如が播磨国の広峰社から牛頭天王を京都祇園荒町に勧請して精舎を建て、祇園天神堂と名付けたからで、毎年7月の夏祭りは、869年(貞観11年)都で流行った悪病払いの御霊会が宮中神泉苑で行われたのが始まりで、祇園祭と称します。
 浄土宗「正覚寺(しょうかくじ)」の洪水供養石仏

 「天王神社」から北へ入って行くと、狭い道の両側に古い格子の家がまだ所々に残っていて、道の左側に「正覚寺」があります。山門を入って直ぐ右(北)に六角形の台座に坐した阿弥陀如来の「洪水供養石仏」があり、台座に刻んだ供養碑文によると、1712年(正徳2年)8月19日木津川が氾濫して川筋の近在辺境の住民数千人が溺れて亡くなり、第三回忌に当たる1714年(正徳4年)8月19日、彼らの菩提を弔うために造立されました。昔の木津は、洪水と戦いながら発展してきた歴史があり、かっての木津川は、度々の氾濫で多くの犠牲者を出し、江戸時代だけでも30回以上の大洪水があった事が記録されています。




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