山背(やましろ)古道  その3

 和泉式部(いずみしきぶ)の墓

 「正覚寺」から更に北へ行くと、JR学研都市線の踏切を渡って直ぐの角に「和泉式部の廟」があり、お堂に向かって左手の奧に進むと、紫式部、清少納言と供に平安時代中期を代表する女流歌人・和泉式部のお墓があります。彼女の生没年は、不明ですが、木津の出身で、父は越前守雅到、始め和泉守橘道貞の妻になったので和泉式部と呼ばれ、子供がやはり歌人として有名な小式部内侍で、その後は道貞と別れ、冷泉天皇皇子、為尊親王・敦道親王と恋をして、その時の恋愛経験を告白的に綴ったのが「和泉式部日記」です。両親王と死別後、藤原保昌の妻となり、情熱的な一生を送り、宮仕えの後、木津に戻って余生を終えました。
 西教寺(さいきょうじ)

 「和泉式部の廟」から又直ぐ前のJR学研都市線の踏切を渡って南へ行き、次の四つ角を左へ曲がって、東へ進み「木津警察署」「接骨院」の前を過ぎてから次の四つ角を左へ曲がって北へ行くと、城南霊場第一番、融通念仏宗、普門山「西教寺」があります。石段を数段ほど上がって山門をくぐり境内に入ると、直ぐ左脇にイチョウの大木が植わっています。なお、当寺の「地蔵菩薩座像」は、平安時代後期の作、木津町で最も古い仏像なので、町指定の文化財に指定されていますが、拝観は事前に申込むことを要します。また、ここは融通念仏宗のお寺で、毎年8月に、鉦や太鼓を叩きながら念仏を唱える「六斎念仏」が行われます。
 大智寺(TEL 0774-72-2500)

 また、「西教寺」から北へ行き、JR学研都市線の踏切を渡って更に北へ行くと、木津川の土手の手前に真言律宗西大寺派橋柱山「大智寺(だいちじ)」があります。1280年頃(弘安年間)叡尊の創建で、開基は西大寺の慈心、重文の本尊「文殊菩薩坐像」は、741年(天平13年)行基が泉川(現在の木津川)に架けた橋の柱だった材を刻み、像高65.5cm、寄木造、半跏の姿勢で右手に剣を、左手に経巻をのせた蓮華の茎を持ち、獅子に乗っています。なお、創立の時には、寺名を「橋柱寺」と称していましたけど、1669年(寛文9年)本寂が東福門院の寄進を得て再興し、その時に今の「大智寺」に改称されました。




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