こもりくの泊瀬「初瀬街道」長谷寺の辺り  その10

 斎宮山に鎮座の「天神社」

 「笠山荒神」から又、県道50号大和高田桜井線を東へ戻り、バス停「剣原」から更に東へ行くと、次の次のバス停が「小夫(おおぶ)公民館前」で、集落の高台(斎宮山)に「天神社」が鎮座しています。なおここ小夫郷は、倭笠縫邑(やまときぬがさむら)とも称せられ、第10代崇神(すじん)天皇即位6年の秋9月23日、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめノみこと)がここに神祠を建て、皇祖の天照大神と天叢雲剣(あめノむらくもノつるぎ、後の草薙剣)を奉侍し給わった最初の霊跡で、宮を泊瀬斎宮と称する、元伊勢です。また後に第40代天武天皇即位2年夏4月大來皇女命が伊勢へ行く途中、ここへ寄られました。
 小夫天神社(TEL 0744-48-8344)

 「天神社」の境内の西側に県下最古と云われている「ケヤキ」が植わっています。推定樹齢1500年、樹高30m、幹周り11mです。根元に幅1.5m、高さ約1mの穴があり、幹の内部は高さ10m位まで空洞になっているが、そこから10本の枝を分かち、枝張りは西北に良く伸びて、樹勢は旺盛です。神社に伝わる古文書によると、第23代顕宗天皇の顕宗紀に「植槻也(うえやけやきなり)田中乃社也」とあり、槻(けやき)の神木がある事が記されています。桑山楢敏宮司によると、「磐境(いわさか)の神木として崇拝しており、樹の前にお供え用の台や、お賽銭箱を置いてほしいとの要望もあり、検討中」との事です。
 化粧川「化粧壺」の旧跡

 「天神社」の直ぐ真下の道を東へ行って、大和川の手前の道を北へ約1.5キロ行くと、「化粧川壺」があります。673年(天武天皇2年)夏4月14日、大津皇子の姉、大來皇女(おおくノひめみこ)が伊勢神宮(いせノかみノみや)の斎王になるために、まずここ泊瀬の斎宮(いつきノみや)にお住まいになり、「化粧川」で禊をして身を清め、次第に神にお近づきになり、そして、翌年10月9日14歳の大來皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮へ移られました。斎王の任が解け飛鳥へ帰られたのは、686年11月16日大來皇女26歳の秋でしたが、弟の大津皇子は、既に1月程前、10月3日謀反のかどで処刑されていました。
 花崗岩、磨崖仏「寝地蔵」

 「化粧川壺」から大和川の所まで帰って、橋を渡り県道38桜井都祁線バス停「小夫」から細い道を南へ約2.5キロ行くと、「寝地蔵」があります。途中は三谷の集落で菅原神社の前を真っ直ぐ進んで、嵩方の集落の三叉路から左(北)へ約800mで、都祁村の藺生峠の手前、車道から東へ50m上がった所、桜井市小夫、小字「下(しも)の仏」です。昔から「三谷のネンドさん」の愛称で親しまれ、特に腰痛に霊験があらたかで、近在の人々の信仰を集め、今もお参りの人が絶えません。なお、昔大男が「寝地蔵」を起こそうとしたが、起きず。また、建武二年(1335年)乙亥十月廿四日の銘がある地蔵さんも立っています。




奈良観光表紙に戻る  長谷寺周辺図を開く  前のページに戻る   長谷のページここまで