山背(やましろ)古道  その9

 大里環濠集落の「大井戸」

 「西福寺」からまた西の「山背古道」へ出て、北へ辿り、「ふるかわ食料品店」の角を左(西)へ入って行くと、「二番区集会所」の西隣が「花田さん宅」で現在も飲料水に使われている「大井戸」があります。この井戸は、狛氏が住んでいた居館の北西に位置していたらしくて、「狛どんの井戸」または「戌亥(いぬい、北西の方向)の井戸」とも呼ばれていましたが、同じ様に「郷井戸」と呼ばれる共同の井戸が各郷内に現在も点在しています。なお、山城国一揆を組織した国人衆の1人、狛山城守秀の子孫と云われる狛左馬進秀綱は、織田信長の配下で、信長が本能寺ノ変で没した2年後に39歳で没し、画像が西福寺にあります。
 京都府指定文化財「小林家住宅」

 山城町、大里環濠集落内の「大井戸」からまた東へ出て、旧街道(山背古道)を北へ進み、道がちょっと左(西)へカーブした突き当たりに浄土宗「西福寺」がありますが、その門前から右(東)側の狭い路地へ入って行くと、直ぐ左(北)に藁葺の「小林家住宅」があります。築300年の民家で、江戸時代の初期、1665年(寛文5年)に建築され、南山城では最も古い民家で、平成4年4月14日京都府指定文化財に成りました。主屋、土蔵、長屋門から構成され、主屋の構造は、基本的に土間と座敷で、座敷は4つの部屋に分かれ、ほぼ田の字の形になっていますが、これは近年まで、南山城地方の最も一般的な農家の造です。
 「狛弁才天」と「玉臺寺(ぎょくたいじ)」

 「小林住宅」から東へ行って、JR奈良線の踏切を渡り更に東の山間へ登って行き、竹藪の間を過ぎると「狛弁才天」が鎮座し、隣に「玉臺寺」があります。1437年(永享9年)に狛野荘の荘官をしていた狛但馬守頼久が狛一族の守護神として造営しましたが、1396年(応永3年)に興福寺東院の僧が参詣した記事があり、「玉臺寺」境内から採取された室町時代の瓦と合わせて、その時期に既に神社と宮寺が存在しており、その後、「山城国一揆」や戦国時代の動乱を経て、1578年(天正6年)、現在の社殿に祀られている「弁才天坐像」と「十五童子像」が南都の仏師集団・宿院仏師の源三郎らによって造立されました。




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