吉野  その18

 「津風呂湖」と竜門岳(標高904m)

 吉野川沿いに宮滝から上流へ行き、バス停「菜摘」を過ぎると、川が大きく曲がっている辺りで、バス停「下矢治」の手前に「矢治峠」があり、そこを越えると「津風呂湖」です。なお、通常「津風呂湖」へは別ルートで、近鉄吉野線「大和上市駅」からバスがあり約15分、海の無い奈良県に初めて遊覧船を浮かべた人造湖ですが、観光用に造った訳では無く、大和平野へ吉野川の水を送るための灌漑用水ダム湖で、昔から大和豊年米食わずと云われ、毎年水不足に悩んだ大和平野へ水を送る事は遠大な夢でしたが、技術的な問題や、下流の人達の水利権の主張が強くなかなか実現せず、昭和36年やっと完成し、温泉施設もあります。
 県立津風呂(つぶろ)湖自然公園

 「津風呂湖」は濃い緑が水面(みなも)に映(は)え、遊覧船による湖上一周(3月15日〜11月末)や、鯉・鮒・公魚釣りの好適地として、新しい観光地に生まれ変わっていますが、津風呂ダムの建設が農林省によって始められたのは昭和29年です。この時の水没により、湖底に沈む我が家を後にして、故郷を立ち退かれた方々は、72戸、そのうち一部の人々は、奈良市西部、平城の地へ移り住みました。なお、津風呂湖ダムのスケールは堤長240m、堤高54mで、使ったセメント袋を縦につなぐと540km、新幹線の新大阪〜東京間の距離に相当し、水面の広さ150ha、周囲32km。湖畔にバンガローもあります。
 旧村社「吉野山口神社」

 「津風呂湖北口」バス停から「嶽川」に沿って北の「龍門岳」へ登る「ハイキングコース」があり、県道28号吉野室生線のバス停「山口」の近くに鎮座する「吉野山口神社」から入ります。なお、吉野山口神社は、「嶽(だけ)川」左岸の森に「高鉾(たかほこ)神社」と並んで鎮座し、両社併せて「龍門大宮」と称し、山口神社の祭神は大山祇(おおやまつみ)命で、「延喜式」神名帳の吉野郡「吉野山口神社」に比定され、「三代実録」で、859年(天安3年)1月正五位下を賜り、同年(貞観元年)9月使を遣わして奉幣とあり、中世に祭神が菅原道真に転化し「天満宮」になったが、後に「吉野山口神社」に改称されました。
 「嶽川」上流の「龍門の滝」

 「吉野山口神社」から「嶽川」沿いに上がって、約30分で「龍門寺跡」に至ります。そこから更に10分ほどで、「久米仙人穴居跡」の石標を目印に小道を下って滝壺へ降りると「龍門の滝」があります。二段12mの斜瀑で、1688年(元禄元年)に45歳の松尾芭蕉が「笈の小文」で訪れて、句碑があります。

 龍門の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせん

 酒のみに 語らんかかる 瀧の花    芭蕉

また、久米仙人がここで修行をしていた伝承もあり、背後にそびえる「龍門岳」が神仙思想の仙境であったことは、葛野王が書いた「懐風藻」の中の漢詩「遊龍門山」に載っています。また、本居宣長も1772年(明和9年)ここへ来たかったけど、案内人が山道は少しきついと云うので断念し、麓の「吉野山口神社」に参拝したことを「菅笠日記」に書き留めています。
 天然記念物指定の妹山(いもやま)樹叢

 津風呂湖からバスで近鉄吉野線の「大和上市駅」へ出る途中、山道を通って吉野川へ出た所に人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」で知られた日本のロミオとジュリエットの舞台の背景に吉野川を挟んで描かれているのが妹山(いもやま)と背山(せやま)です。写真の山は、背山側から対岸の「妹山」を写したもので、人形浄瑠璃の三段目切りの「山の段」に登場して、大和国妹山の領主太宰少弐の後室定高の娘雛鳥と、紀伊国背山の領主大判事清澄の息子久我之助の館が、それぞれ吉野川の両岸にあり、仲の悪い両家の子女がお互いの身の上を知らないまま恋に陷(おちい)って、悲劇的な最後を遂げました。
 大和の中本山「本善寺」

 吉野川の北岸、国道169号線(和歌山街道、和歌山から吉野を通って伊勢へ向う伊勢街道の支道)から桜橋を渡ると、蓮如上人が吉野地方の真宗布教の拠点として創建した名刹「本善寺」があります。大和の中本山と呼ばれた飯貝御坊六雄山「本善寺」で、最初の本堂は1578年(天正6年)織田信長の命を受けた筒井順慶に焼かれたが、1670年頃(寛文年間)に再建され、7間4面で、初期の真宗寺院の様式を随所に遺している大型の本堂で、境内に蓮如上人の第12男・実孝上人が父を追懐して植えた古木「懐の桜」があり、また、総欅造、間口3.47mの山門に続き、3階建の太鼓楼があり、昔のポンプを置いています。
 大名持神社(おおなもちじんじゃ)

 「妹山」の麓に「大名持神社(大汝宮)」が鎮座しています。延喜式神名帳で大和国吉野郡十座の1つに列せられ、大月次新嘗(おおつきにつぐにいなめ、宮中で大嘗祭を行う年を除き、毎年陰暦11月に行われる儀式)の官弊(かんぺい、神祇官から幣帛を授けられる)にあずかる格式の高い神社で、859年(貞観元年)正月27日正一位の神階を授けられ、元は竜門郷21ケ村の式内郷社。祭神は大名持命(大国主命)と妻の須勢理比刀iすせりひめ)命、少名彦名(すくなひこな)命です。なお、年に一度、毎年6月30日神社の下の伊勢街道に沿った吉野川の潮生淵(しおいふち)から熊野灘の海水が湧き出し、禊をされます。
 古道芋峠への道に建つ「観音堂」

 「妹山」から国道370号線を「吉野川」沿いに西へ向うと、近鉄吉野線「大和上市駅」へ至りますが、途中の吉野町役場から「千股川」沿いに北へ向うと、吉野町千股から古道「芋ヶ峠」を通って、明日香村へ至ります。途中に写真の様な千股持経塚「観音堂」が建っていて、そこの直線を過ぎると、つづら折りの登坂で、木立が邪魔をするから見晴らしは余りよくありませんが、登りつめて、杉木立の「芋峠」を下ると、「飛鳥川」沿いに県道15号桜井明日香吉野線を下り「栢森」「稲淵」を通って、「石舞台古墳」へ出ますが、この道は、明日香吉野の最短道で、女帝持統天皇31回の吉野行幸もこの道を行かれたと思われます。
注:本善寺の写真の上にマウスを乗せると、境内にあるポンプの写真が現れます。
但しJavascriptがオフの場合は表示しません。




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