大滝の郷「川上村」  その4

 金剛寺(TEL 07465-4-0632)の梵鐘

 「御船の滝」から「井光林道」を「井光川」沿いに西へ下って、また、「吉野川」の「武光橋」を渡り、「国道169号線」へ出たら南へ向い、「吉野川」に架かる「大平橋」を渡って右へ登って行くと、「白鬚岳(標高1379m)」への道で、途中から右へ入ると、大きな紅葉の木の下で突き当った所が駐車場で、急な石段を登ると、高野山真言宗妹背山「金剛寺」があります。本尊の「地蔵菩薩像」は、役行者が彫って大峯山からここまで投げたと伝えられる「投げ地蔵」です。なお、「本堂」と境内の「牛頭天王神社」は、近世寺院建築様式で、神社本殿が一間社流造。また、収蔵庫に重文「南北朝・自天王遺品」等もあります。
 宮内庁の「後南朝墓所」

 また、「金剛寺」は、後南朝菩提所としても知られており、「本堂」に向かって左の急な石段を上がった所に後亀山天皇玄孫の「南帝自天皇陵」があります。なお、「後南朝」とは、1392年(明徳3年)南朝後亀山天皇が上皇になり、北朝後小松天皇が譲位して南北朝が合体した後、1411年(応永18年)明徳の条約を破って、後小松天皇が皇太子実仁親王を称光天皇に即位したので、後亀山上皇と小倉宮実仁親王が再び吉野へ潜行して創った朝廷です。その後も南北朝合体分裂を繰り返し、1455年(康正元年)後南朝最後の皇胤、尊秀王16歳が自天王(北山宮)として即位し、龍泉寺(上北山村小橡)を行宮にしました。
 金剛寺の「ケヤキ」の巨樹

 なお、「金剛寺」の創建は、はっきりしませんが、鎌倉時代初期1200年頃と云われ、その頃、お寺が造られた頃と前後して、自生した物と思われる大きな「ケヤキ」の巨樹が、境内へ上がる石段の脇に植わっています。推定樹齢800年、幹周り6.5m、幹高約30m、海抜の高い「川上村神之谷」集落から見て更に高所の境内に植わっているため、永年の風雪にも耐えきれず、かなり破損が激しく、幹の内部に大きな空洞が出来ていますが、それでも初夏になると青々と若葉が芽吹き、沢山の葉を扇状に広げた枝に繁らせ、新葉と同時に淡黄緑色の小花も咲かせます。果実は、灰黒色で直径約4mmぐらいの球形の物が成ります。また、1457年(長禄元年)12月2日夜、自天王は、ここで襲われ、あえない最後を遂げたけど、村の者が必死になって後を追い、寺尾の集落で、弓の名人大西助五郎が敵将中村貞友を仕留めて、王の首と神璽(しんじ)を取り返し、今でも王の命日12月2日、当事の郷士らの子孫によって御朝拝式が行われます。
 不動窟(TEL 07465-4-0227)

 「金剛寺」からまた西へ下り、「大平橋」を渡って国道169号線へ出たら、吉野川沿いに南へ上って、「柏木トンネル」を抜けると、バス停「不動窟」で、国道真下に「不動窟」鍾乳洞があります。1300年前に役行者が発見し、後に大勢の行者が修行をした所で、全長約140mの薄暗い洞内を恐る恐る進むと、ゴウゴウと音を立てて白く流れ落ちる荘厳で神秘的な「不動滝」が出現し、滝に落ちそうになりながら水をすくって飲んだら、「一口飲めば健康で安らかな人生が送れる」と云う有り難い滝の力水で、これほど迫力のある洞内滝は、日本でも大変珍しいと云うことですが、その水源地や流出先も謎と云う不思議な滝です。




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