南山の辺の道  その6

 大神神社(TEL 0744-42-6633)の拝殿

 大和国一の宮「大神神社」は「三輪明神」と呼び、1664年(寛文4年)徳川四代将軍家綱の造営した重文の拝殿と三ツ鳥居と瑞垣はあるが、本殿は無く、三輪山そのものが神が鎮まる三諸の神奈備で、御神体です。日本全国に古い神社は沢山有るが、その中でも古社中の古社で、神殿を持たない神社形式は日本神道の古い姿を示し、当社は今もその原像を保ち、祭神は大物主神、すなわち大国主神の和魂(にぎたま)で、国土草創の神です。また、酒と薬の神でも有り、造酒屋の軒に吊されている杉玉は三輪山の杉で作ります。なお、元旦未明の繞道(にょうどう)祭は大松明を掲げて三輪山の麓を離れる事なく摂末社を巡回します。
 巳(み)の神杉(かみすぎ)

 三輪山を始め境内に生い茂る杉は神霊の宿る神樹、神霊の天降る霊木として崇拝され、江戸時代に「雨降杉」と云われ、雨乞いの時に里人が集まり、この杉にお詣りしてたが、いつの頃からか杉の根本に巳(み、蛇)が棲んでいたので「巳の神杉」と称し、巳さんの好物の卵と酒が供えられ、蛇は古来より三輪の神の化身として崇敬され、「日本書紀」の崇神天皇10年9月条に「小蛇(こおろち)」とあるが、雄略天皇7年7月条には、三輪山に登って捉えたのが「大蛇(おろち)」であったと伝え、いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていた事を示しています。なお、大神神社には、謡曲「三輪」で、玄賓僧都が女人に与えた衣が掛かっていた「衣掛杉」や、三輪の大神が示現した「しるしの杉」、そして、「古事記」で当社の祭神と活玉依媛(いくたまよりひめ)の神婚に由来して、大田田根子(おおたたねこ)命の誕生を物語る「緒環杉(おだまきすぎ)」などもありますが、いずれも今は枯れてその根元だけです。
 大神(おおみわ)神社の「大鳥居」

 「大神神社(三輪明神)」の長い参道を西へ出て、JR桜井線の踏切を渡ると、国道169号線に面して「大神神社」の大鳥居(明神鳥居)が建っています。大きさは、熊野大社に次ぎ、高さが32mで、十階建ビルの高さに相当し、また、棟木の断面は五角形で、笠木と島木を二段重ねにして、長さが41m程あり、総重量185ton、三重県津市の造船所で製作し、六分割で現地に搬送されました。なお、素材は耐候性鋼板と呼ばれる厚さ12mmの特殊鋼で、10年以上経過すると鋼板の表面に硬い酸化皮膜が形成されて、錆による侵蝕を抑えることが出来ますが、最初に錆の安定処理を施し、その後塗装は行われておりません。
 慶田寺(TEL 0744-42-6209)

 国道169号線を700mばかり北へ行くと、バス停「芝」を過ぎ、「巻向川」の手前、左側の奥まった所に曹洞宗三輪山「慶田寺(けいでんじ)」があり、1470年(文明2年)海門広徳(興徳、補巌寺四世住職)の開基で、「岩田寺」とも称し、江戸時代には戒重藩(後に芝村藩)織田家の菩提寺で、織田信長の末弟・織田源五郎長益(有楽斎)ゆかりのお寺です。本尊は「十一面観音立像」、平安時代の作、ケヤキの一木造、この付近屈指の古像で、山門は芝村藩織田家の陣屋(現在、織田小学校)の南大手門で、庫裡は江戸時代の酒屋の移築、昭和の本堂は「薬師寺」の金堂や西塔を建てた棟梁・西岡常一氏が建てられました。
 綱越(つなこし)神社

 「慶田寺」からまた「大神神社」の大鳥居の所まで戻って、参道入口の脇に鎮座するのが大神神社摂社・延喜式内社「綱越神社(おんぱらさん)」です。祓戸(はらいど)の大神を祀り、夏越(なつこし)の社とも言われ、毎年旧六月晦日の大祓「夏越祓(なつこしノはらえ)」が厳粛に行われる古社として広く世に知られ、社名の綱越はこの夏越から転訛したもので、本社の最も大切な「卯の日」の神事、大神祭の奉仕に先立ち、その前日に神主以下奉仕の方が三輪川で「垢離(こり)取り」の後、当社で祓の儀を受け、初めて本社の神事に携わる事ができ、毎年7月30、31日両日、御祓(おんぱら)祭が盛大に執り行われます。
 恵比須神社(TEL 0744-42-6432)

 「綱越神社」の南側から旧街道(県道153号線)を南東へ辿ると、「円融寺」の角を曲がって、東へ行った所が三輪集落の中心で、三輪坐「恵比須神社」が鎮座しています。祭神は、日本で最初の市場・海石榴市(つばいち)の守護神、事代主命(ことしろぬしノみこと、三輪明神の御子神)、加夜奈留美(かやなるみ)命、八尋熊鰐(やひろのわに)命の3柱で、当社は悠久の昔より「つばいちえびす」と称えられ、商売繁盛、福徳円満を祈って多くの参拝者が敬仰した大和の古社で、恵比須信仰の本源をなす社でもあり、毎年2月6日「初市大祭」で「三輪の初市相場」が立ち、なお、当社から東へ行くと、「平等寺」へ至ります。
 平等寺(TEL 0744-42-6033)

 「山の辺の道」は「大神神社」から参道へ出ずに、境内から南へ向い、「三輪成願稲荷神社」の横を通り暫く行くと、やがて「三輪山」の額が掛けられた山門が建つ真言宗の「平等寺(びょうどうじ)」です。境内に聖徳太子の像が建っている事からも判るように、581年聖徳太子が8歳の時、賊徒を平定する為、三輪明神に祈願し、目出度く賊徒平定の後に「十一面観音」を彫って寺を建立した「大三輪寺」が始まりで、後に鎌倉時代の初期、慶縁上人を迎えて「平等寺」と改称されてから大伽藍を再建されました。更に下って江戸時代に入ると修験道の霊地として、大峯山へ向う修験者が境内に在る不動の滝に打たれ行をしました。
 志貴御縣坐(しきノみあがたにいます)神社

 「平等寺」の小さな南門から出て、「山の辺の道」を進み、少し西へ逸れると、金屋の鎮守「志貴御縣坐神社」が鎮座し、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきノみずがきノみや)跡です。崇神天皇は疫病が流行った時、三輪山の神を祭祀し、四道将軍を派遣して大和朝廷の勢力を広めました。また、ここは三輪山を背にして、古代の歌垣で名高い海柘榴市を脚下に控え、大和平野を見渡す高燥の地であり、東は泊瀬(はつせ)道から伊勢を経て東国へ、西は大和川の水運を利用して難波へ、南は磐余(いわれ)道から飛鳥を経て紀伊へ、北は山の辺の道、奈良、京を経て北陸、日本海へと繋がる交通の要衝で、古代大和王権発展の拠点でした。


 国重文「金屋(かなや)の石仏」

 また、「山の辺の道」へ戻り、南へ進むと、直ぐに道の左側、道端よりも一段高い所に鉄筋コンクリート造のお堂が建っています。中を覗くと、二躰の石仏があり、右が釈迦如来、左が弥勒菩薩と推定され、衣文のヒダは陰刻で、我が国で最も優れた石仏の1つに数えられ、全体が高さ2.2m、幅約80cmの二枚の粘板岩(石英組面岩)に浮彫され、右側の赤茶色の石は、石棺の蓋を使用したのではとも云われて、脚部が唐招提寺派にある量感を見せているから、彫られたのは平安時代初期860年頃の貞観時代か、新しくても鎌倉時代と見られ、はっきりしないけど重文の指定を受け、なお、床下にも石棺が在るのでお見逃しなく。
 喜多美術館(TEL 0744-45-2849)

 「金屋の石仏」の直ぐ前が「喜多美術館」で、昭和63年シルクロード博を記念して開館され、西洋近代美術を中心に収蔵し、ゴッホ、ルノアール、ピカソ、須田国太郎、佐伯祐三、安井曾太郎、梅原龍三郎、藤田嗣治、熊谷守一らの作品を展示。また、東洋美術として、漆器類の蒔絵(まきえ)、螺鈿(らでん)、象嵌(ぞうがん)、堆朱(ついしゅ)、陶磁器の宋青白磁、宋黒釉天目(そうこくゆうてんもく)、元青磁、明青華、古九谷(こくたに)、古伊万里、古備前等が展示され、その他に屏風、印籠(いんろう)、根付、貝合(かいあわせ)、犬箱、調度品なども展示して、なお、月曜(祝日の場合翌日)と木曜が休館日です。
注:金屋の石仏の写真の上にマウスを乗せると、内部にある二躰の石仏の写真が現れます。
但しJavascriptがオフの場合は表示しません。




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